人が人を語ること(2):「解釈」の怖さ
最近思うのは、伝記の真実性である。さらに言えば、人が他者の生涯、他者の人生を、その断片であっても語ることはできるのだろうか。
ここ数週間、木田元氏の『哲学散歩』『哲学は人生の役に立つのか』『わたしの哲学入門』などを読みながら、書かれている哲学者たちの人生の姿は、果たして事実であったのだろうかと考え込んでしまった。ソクラテスからプラトン、カント・ヘーゲル・フッサール・ハイデガー等々のエピソードが描かれているが、木田氏のことだから彼らに関する膨大な関係書を丁寧に読み込み、自らの思考と判断で、彼らの哲学の背景として、思索の道程として書いていることだろう。
哲学者だけでなく文学者や研究者、実業家など、さらに歴史上の偉人と呼ばれる人たちの人生を、自伝や伝記を通して読んできた。彼らの思想、生き方やあり方など学ぶべきことは多く、影響も受けてきた。しかし、ふと脳裏をよぎったのは、伝記作者の「解釈」であり、自伝もまた「解釈」ではないのかという疑念である。
伝記は「人物像」を描くことを主眼とする。哲学者など学者を描く場合は「人と思想」と言われる。「思想」であり「哲学」を生み出すのは「その人物」である以上、その人物の「人間像」が深く関わっているのは当然ではあるが、その人物に関する「情報」にどれほどの「信憑性」があるかも大きく関係している。
直接に深く関わっている人間が書いたとしても、直接関わった人間の「証言」を集めたとしても、それらは書く人間の主観的な判断に基づく記述でしかない。まして、直接に知ることができず、彼に関する「証言」や「(伝記などの)記述」がさまざまであれば、「人物像」を明確に表すことはむずかしいのではないだろうか。時代が古ければ古いほど、後世の人間、それも多くの人間による「事実」に対する「解釈」「見解」「表現」等々がそれぞれに書かれてきたのではないだろうか。
私は決して「真実」が知りたいとか「事実」はちがうのではないかと深掘りしたいのではない。事実について「脚色」や「誇張」、さらには「改竄」があったとしても、それは仕方がないことだと思っている。
その業績と彼の人間性や人格とは別のものであることもわかっている。『存在と時間』を読みたいというだけで大学に入ったほどにハイデガーに心酔している木田氏でさえ、ハイデガーについて「性格が悪い」「人格に問題がある」等々と、いろいろなところに書いている。
なぜ、そんな分かり切ったことを、あえて俎上に載せるのか。それについては、私自身の身に起こっていることを書いて説明するしかない。
十数年前の一時期、ほぼ毎日、私に対して「誹謗中傷」を続けたY(福島県在住の隠退牧師)氏が、プロバイダーからの「削除要請」度にプロバイダーを替わっていく。3度目のGoogleブログ(blogger)で、再び過去の「記事」を再掲している。
当然、私に対する意味不明な「記事」も再掲している。「イチャモン」としか思えない「記事」であるが、その中の1つを例に、「解釈」の怖さについて述べてみたい。
事象や学説などに関しては、それぞれの立場や思想(考え)によって「解釈」もさまざまであるが、個人の人生におけるできごと、その時の気持ちに関しては、当人以外の人間は「推測」しかできない。にもかかわらず、当人の思いや感情を自己流に(本人の真意とは異なる)「解釈」をして「断定」し、さらに「批判」することは不遜な言動であると私は思っている。
私とは一面識もない、ネット上の「記事」でしか私のことを知らないにもかかわらず、Y氏は、私が2001年佐賀県で行った講演を文字に起した「講演録」を「テキスト」と称して自分のブログ上で分析・考察・批判している。(『ある中学校教師の同和教育の限界 人生と差別』)
ここで、その「解釈」の独善性と曲解・歪曲について述べておきたい。
Y氏が特に問題視している「講演録」の最後の部分を転載する。
この講演の最後に私が伝えたかったのは、幼かった頃、そして大人になって以降、教師になってからも、気づくことのなかった「自らの差別意識」であり、同和教育というのは、そのような「自らの差別意識」に気づかせてくれる(気づいていく)教育の営みであるということ。そして、教師自らが自分自身を見つめることを通して、生徒の抱える悩みや問題に気づき、目をそらすことなく向き合っていくことの大切さである。
Y氏は、私をまったく知らない。一面識もない。ネット上の「文章」でしか知らない。私の教師としての仕事も日常も知らない。家族のことも、父親や母親との歴史や生活さえ知らない。にもかかわらず、「講演の文脈と表現にもとづいて検証」し、次のように「断定」する。
確かに、父親の職業に関して、当時の世間一般が見なしていた偏見や差別観が私の中にもあったしかし、貧しいながらも親子3人で日々幸せに暮らしてきたし、母親から聞かされた父親の生い立ちや私の出生に関しての話、また限りなく優しく接してくれた父親に対して、感謝と愛情しかない。
ところが、Y氏は、次のように「断定」する。
この文章を読んで唖然とした。どこをどう読めば、ここまで「断定」できるのか。
「父を見下し蔑んでいた私こそが差別者でした」の一文が、ここまで「解釈」されてしまうとは、Y氏の妄想力には驚かされてしまう。「父を」と発言した部分が「揚げ足取り」になったのかもしれないが、本人が断言するが、当時も今も、「父親に対する<尊敬の念>を喪失」したことは一度もない。
まして、大学に進学したこと、「大学で学んだことは」「無学歴の父親を凌駕するため」でもないし、「尊敬する仕事につくため」でもない。教師の仕事を「尊敬される仕事」と思ったことは一度もない。もちろん、どこにも言ったり書いたりしたことはない。
これが「解釈」と「独善性」「独断」「思い込み」の恐ろしさなのである。
Y氏の「解釈」の前提は、私を「差別者」として非難することであり、そのための手段として「講演録」を恣意的に解釈することである。彼の手法(筆法)の特徴は、「批判検証」という批判することが前提であり、そのために対象の「記事」(文章)を「自己流」に解釈し、断定する。その「断定」を基準にして他の「記事」や文章を解釈する。その結果、「臆測」が飛躍して「事実(真実)」と化していく。
A(書いた本人の真意)をB(自己流解釈)と断定し,BなのだからC(類推・臆測して)であると決めつけ,Cのような人間(考え)はD(臆測して)でしかないと結論づける。まさに,このような論法である。デタラメな「三段論法」であり,そもそも論理学どころか思考の前提条件(対象を正確に把握すること)から破綻している。
さらに続けて、臆測から臆測が生まれ、彼の「思い込み」が次々と加速していく。
「インターネットのBBS」などに書いた(投稿した)覚えはない。確認してみたが、どこにも記述はない。HPとブログには転載した。私の「講演録」で父親のことを話しているのは、佐賀県と大分県である。そこには、上記の「引用」された一文はない。
Y氏の記述だと、私が父親に対して「<差別発言>」を「強化」したり、「父親の負のイメージを増強させ」て、「親に対する<侮辱>・<差別>そのもの」「父親に対してなげかけた誹謗中傷・罵詈雑言」であり、それと「同じもの」として「拡大再生産」され、「他者に向けられた、誹謗中傷・罵詈雑言の数々」があるという。
先ほどの指摘したとおり、Y氏は、自分が「断定」した基準をさらに拡大解釈し、父親への<差別発言>・<侮辱>・<差別>を「強化」し、その延長で、他者に対しても誹謗中傷・罵詈雑言をなげかけていると決めつけている。
どこにその証拠があるのだろうか。彼は証拠を提示しない。
父親に対する<差別発言>を強化している証拠として、彼が「引用」している文章の全文をなぜ出さないのだろうか。なぜ一部分のみの「引用」で自分の解釈を正当化するのか。
確かに、父親は母親との結婚で義母からそのような言葉や仕打ちを受けたと聞いている。しかし、その後は母の兄弟姉妹よりも信頼され、身の回りの世話から病院、死に水、葬式と父親が尽力している。そのことを直接に見ている私が、なぜ父親への<差別>を強化しなければいけないのか。尊敬こそすれ侮辱などしようはずもないだろう。
Y氏は、時系列を無視して、自分で勝手な臆測で決めつけている。私が父親に関して述べている「講演録」として公開している大分県の関係部分を転載しておく。
佐賀県での講演も大分県での講演も、ほとんど同じ内容である。
Y氏が「引用」しなかった部分こそが、父親の話を通して私が最も伝えたかったこと、そして両親に対する私の本心である。
しかし、彼が「引用」しているのは、区切り線(---)から上の部分だけであり、彼にとって「都合のよい部分」のみの引用である。これで本当に他者の真意を理解しての「批判」と言えるだろうか。彼は自分の主張の根拠として、自分に都合のよい部分のみを意図的に「引用」しているのである。この手法は、彼が私や他の研究者・学者に対して「批判」している「記事」でも多用している手法である。
このことがよくわかるのが、同じ「記事」の続きである。
いつの間にか私の「講演録」から離れて、私の使用した「言葉」「表現」のみがY氏によって持ち出され、「職業差別」者と断定されて、次の展開に持ち込まれる。つまり、私は「ゴミ清掃員」の「仕事」を「必ずしも尊敬される仕事ではない」という「価値観」の持ち主に断定されてしまっている。
ついには、次のように「断定」されて「批判」されることになる。
私は「典型的な職業差別の体現者」だそうである。このように、Y氏は、最初から私を「批判」することが目的であり、そのための根拠として私の「講演録」の都合のよい部分(「言葉」「表現」)のみを抜き出し、曲解・歪曲して、自分の主張(私への批判)を正当化しているとしか思えない。
私の人生を憂慮してくれなくても結構ですけど(悪しき皮肉と受けとめていますけど)、私も父親も決して「とてもさびしい人生」にはなっていないので…。
確かに,私は父親の職業に対して恥ずかしいと一時期思っていたことがある。それは幼少期の体験と当時の周囲からの「まなざし」(職業に対する差別意識)を過敏に受け取ったからである。しかし,同和教育と出会い,差別から学ぶようになり,そのまちがいに気づき,自らの差別意識(偏見をもって職業をとらえていた)を愚かなことと反省した。
だが,Y氏が自信満々に「断定」するような,父親の「学歴」を否定したり見下したりしたことは一度もない。まして大学進学を志したのは純粋な知的好奇心からであり,父親を見下げるためでも,大学に行ったこと(高学歴とも思っていないし,そのように決めつけられるのは心外だが)で父親を凌駕(軽蔑)する,などと思ったこともない。
父親に対しては育ててくれた恩も感謝も人並み以上に感じて生きてきた。尊敬する父親であると今も思っている。
私の講演録の(前後の文章や全体の趣旨を無視して)一部分のみを抜き出して自分勝手な解釈をして,私の心理を読み取ったと思い込み,「学歴差別」の証拠として,私の人間性や人格にまで踏み込んだ誹謗中傷を展開するのは名誉毀損・侮辱罪・人権侵害でしかない。
Y氏が私について批判している内容の欺瞞性と虚偽について、次のBlogにて反論しておいた。他にも曲解・歪曲による独断的な解釈と虚偽の捏造は多々あるが、バカバカしいので相手にしないことにした。