光田健輔論(82) 栄光の光と影(4)
なぜ、光田健輔が日本の独自のハンセン病政策のシステムを構築できたかを考えたとき、大きく3つの要因があったと思う。1つ目は、光田を支持し支援した人物が存在したこと、2つ目は具体的な計画を立案できたこと、3つ目は時流に乗ることが巧みであったことであると考える。この3つは時代の変化と経緯に応じて、互いに相補的に連関しながら、着実に実現に向かう原動力となった。
そして、この3つの根底には<救らい>に身命を賭して尽くす圧倒的な信念と熱情があり、それが人の心に響き、人を動かし、人的・物的・経済的・政治的な支援と協力を得ることができたのだ。もしそうでなければ、光田の描いたハンセン病政策は実現しなかっただろう。
私は光田健輔の歩んだ人生を追いながら、彼は時代と出会いに恵まれた希有な人間であったと思う。ある意味でカリスマ性と求心力を持った人物でもあった。また、光田は時機を察知する能力に優れ、相手が何を望んでいるかを敏感に察して呼応する雄弁性を備えていた。それは不可能とも思える<ハンセン病対策の事業>を成し遂げた交渉術の手腕として発揮された。
ある時はハンセン病患者の不遇な境遇を嘆くことで<救らい>の人道的支援の必要を訴え、ある時は国際的な立場を強調して<外国への体面><国辱>を前面に打ち出して隔離の必要性を訴え、ある時は感染力の強力さを強調して<社会防衛>のために患者に犠牲を強いるから施設の拡充と整備の必要性を訴え、ある時は<ハンセン病の撲滅>のためにすべての患者を療養所に送る必要から「無らい県運動」を呼びかけ、ある時は<患者救済>のために人々の善意の寄附を呼びかけ、ある時は<善良なる患者を守る><治安維持>のために「懲戒検束権」「監房」「重監房」の設置を要求した。
光田の<救らい>に賭した姿に感動した医者や看護師、職員、さらに外部関係者、宗教関係者が次々に賛同の輪を拡げていく。そこには善意もあれば、功名心もあれば、利害もある。
その反面、光田は目的のためには手段を正当化していく。事実について隠蔽、虚偽、捏造をしても、自らの主張を正当化するために詭弁を弄しても、光田には「絶対隔離政策」の遂行のための「手段」であった。患者を慈しむような態度も、平気で患者を裏切る行為も、患者への差別的な言動も、患者の人権を否定する言動も、患者を容赦なく「特別病室(重監房)」に送致する非情さも、虚偽の発言や執筆も、<目的>達成を優先する光田にとって矛盾ではなかった。
光田を支えた人物の存在は大きい。特に渋沢栄一を「後ろ楯」にできたことが何より大きい。渋沢の紹介で得た知己や人脈が拡がり、光田に権威と権力を与えていったのだ。成田は「日本の癩対策の基本原理でもある絶対隔離にとって、中心的かつ強力な権威者ともいわれるのは、渋沢栄一、安達謙臧、高野六郎ら三人の協賛があったからこそではなかったか」と述べているが、初期においてはこの三人の「後ろ楯」は大きい。成田がとらえた「三人が光田に繋がった流れ」を参考にしながらまとめておく。
光田健輔と渋沢栄一の出会いは、光田が東京帝国大学医学部専科を修了した後、東京市養育院に勤めることになったことに始まる。
松平定信が創設した「七分金積立制度」による細民救済の基金が、明治となって東京府の管理となり、渋沢が頭取である第一銀行に預けられていた。東京府養育院は、1872(明治五)年、ロシア皇太子の来朝に際して、体面上の問題から放浪する200人余りの乞食(浮浪者)を本郷の加賀屋敷に集めた。その2年後、彼らを救済するための社会事業施設として渋沢が院長となって開院した。光田健輔は東大雇医員、養育院勤務であった。
その後、ハンセン病患者を隔離するための一室が必要との光田の意見を渋沢も理解して、今までの伝染病室をハンセン病の隔離室とした。光田は「回春病室」と名付け、その責任者となり、以後ハンセン病の専門医として研鑽を積んでいく。渋沢もしばしば光田の話を熱心に聞くにつれて彼を認めて支援する関係となっていった。
1914年に全生病院院長に就任した光田健輔を講師に、渋沢は自らが会長を務める中央慈善会が主催する癩予防懇談会を開催した。その開会の挨拶で、渋沢は光田との関わりを次のように語っている。
この逸話も青柳の評伝によるもので、事実かどうかはわからないが、渋沢の「後ろ楯」によって光田は多くの知己を得ていく。この懇談会にも渋沢の声かけで医学、法学の権威、前衛生局長窪田静太郎、現衛生局長中川望、内務次官潮恵之輔など学者、政治家、官吏、実業家など50名ばかりが参加している。
その席で、中川は「今後ライ予防運動を展開させて行くについて、光田健輔に意見書を提出せよと言って」いる。これが、2つ目の「具体的な計画」の立案につながっていく。
全生病院創設20周年(1929年)式典に参加した渋沢に、光田は救癩団体の設立を強く求めた。渋沢は、光田の要請を受け、法制局長官の窪田静太郎に電話し、さらに内務大臣安達謙臧に直接に面会して生涯最後の奉仕と懇請したという。また、恩師である入沢達吉が侍医頭となっていたことから、皇太后に伝奏してもらうように依頼していた。後日、皇太后から御手許金24万8千円の御下賜があった。そのうちの10万円が癩予防協会の基金に組み込まれたのである。
ちなみに、当時の約25万円は現在の貨幣価値に換算すると2億5000万円ほどになる。(約1000倍として計算した)
ハンセン病政策には莫大な予算が必要である。国家からの予算では充分に賄いきれない。光田は皇室の“仁慈”を利用したのである。貞明皇后からの「下賜金」は、皇室のハンセン病患者への“仁慈”の具現であると同時に、皇室の“恩”を社会に喧伝することになり、それは「寄付金」という形で還元される。その窓口の役割を癩予防協会が担っていく。
大正末ごろ、賀川豊彦がはじめて全生病院を訪問したとき、「光田先生は、ただの優れた医者ではない。稀に見る経世家である。院内をここまで自給自足体制にもってきて経営されている。まことにおそれいった」と述懐されたと林芳信は書いている。
誰一人として光田の独善性や欺瞞に気づかなかったのだろうか。そのヒントは、次の内務省衛生局長高野六郎の言葉によく表れている。
成田は、この逸話を「…光田の、医療者や患者を引き付けるためのいかにもわざとらしい仕種」であり「疎ましい」とさえ言う。
渋沢の母であるお栄は慈悲深く人が困っているのを黙ってみていられない性質で、渋沢の生家の隣に住んでいた女の癩患者をよく世話をした。渋沢は少年の頃に見た母の思いと光田の思いを重ねたのだろうと成田は推察するが、それは渋沢の勘違いであると、次のように述べる。
確かに、光田は都合よく<救らい>のパフォーマンスを演じている。それは、愛生園を訪れて光田の姿に感銘を受けた人たちが似たような証言をしていることからもわかる。その人たちの多くが、渋沢と同じく光田に何かしてあげたくなった、あるいはハンセン病の専門医として愛生園で働きたくなったと語っている。
私は、成田のように一概に「功利的な心情に基づくもの」と決めつけることはできない。少なくとも<救らい>の意志は本物であり、損得勘定でハンセン病の世界に身を置いてはいないと思う。自分の主張が通りやすくするために人脈を利用していった点では「功利的」とも言えるが、それも自分の利益のためというより療養所経営のためである。光田には金銭欲や物欲といったものはほとんどなかったのではないだろうか。もし少しでもあれば、渋沢に見抜かれていたことだろう。ただ、あるとすれば、功名心と執着心であろう。