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村上春樹語録

「村上春樹 雑文集」より
◎自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)
小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断をくださないことを生業とする人間です」と。
(中略)
なぜわずかしか判断を下さないのか?最終的な判断を下すのは常に読者であって、作者ではないからだ。小説家の役割は、下すべき判断をもっとも魅力的なかたちにして読者にそっと手渡すことにある。
小説家が(面倒がって、あるいは単に自己顕示のために)その権利を読者に委ねることなく、自分であれこれものごとの判断を下し始めると、小説はまずつまらなくなる。深みがなくなり、言葉が自然な輝きを失い、物語がうまく動かなくなる。

良き物語を作るために小説家がなすべきことは、ごく簡単に言ってしまえば、結論を用意することではなく、仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ。我々はそれらの仮説を、まるで眠っている猫を手にとるときのように、そっと持ち上げては(僕は「仮説」という言葉を使うたびに、いつもぐっすり眠り込んでいる猫たちの姿を思い浮かべる。温かく柔らかく湿った、意識のない猫)、物語というささやかな広場の真ん中に、ひとつまたひとつと積み上げていく。

「自分とは何か?」という問いかけは、小説家にとっては――というか少なくとも僕にとっては――ほとんど意味を持たない。それは小説家にとってあまりにも自明な問いかけだからだ。我々はその「自分とは何か?」という問いかけを、別の総合的なかたちに(つまり物語のかたちに)置き換えていくことを日常の仕事にしている。作業はきわめて自然に、本能的になされるので、問いそのものについてあえて考える必要もないし、考えてもほとんど何の役にも立たない、むしろ邪魔になる。もし「自分とは何か?」と長期間にわたって真剣に考え込む作家がいたとしたら、彼/彼女は本来的な作家ではない。あるいは彼/彼女は何冊かの優れた小説を書くかもしれない。しかし本来的な意味での小説家ではない。僕はそう考える。

僕らは「文学」という、長い時間によって実証された領域で仕事をしている。しかし、歴史的に見ていけばわかることだが、文学は多くの場合、現実的な役には立たなかった。たとえばそれは戦争や虐殺や詐欺や偏見を、目に見えたかたちでは、押し止めることはできなかった。そういう意味では文学は無力であるともいえる。歴史的な即効性はほとんどない。でも、少なくとも文学は、戦争や虐殺や詐欺や偏見を生み出しはしなかった。逆にそれらに対抗する「何か」を生み出そうと、文学は飽くこともなく営々と努力を積み重ねてきたのだ。もちろんそこには試行錯誤があり、自己矛盾があり、内紛があり、異端や脱線があった。それでも総じて言えば、文学は人間存在の尊厳の核にあるものを希求してきた。文学というものの中にはそのように継続性の中で(中においてのみ)語られるべき力強い特質がある。僕はそう考えている。


◎物語の善きサイクル
小説を書くというのは、頭の中で物語を思うがまま、自由に作り上げる作業にほかならない。それは根も葉もない物語かもしれないし、ある場合には荒唐無稽な物語かもしれない。しかし、一度作り上げられ、印刷され、作品というかたちを与えられた物語は、しばしばーもしそれが正当な物語であればということだがー自立した生命体として、それ自体の資格でひとりでに動き始める。そして予期してもいないときに、あっと驚くような真実の側面を、作者や読者に垣間見させてくれることになる。まるで一瞬の雷光が、部屋の中の見慣れたはずの事物に、不思議な色とかたちを与えるように。あるいはそこにあるはずのないものを、はっと浮かび上がらせるように。それが物語というものの意味であり、価値であるはずだと僕は考えている。

「若い読者のための短編小説案内」より
日本の文学をめぐる現実的な諸事情について、僕はあまり批判的なことを口にしたくありませんが、「今の日本の社会は、作家がゆっくりと時間をかけて、精神を集中して、ひとつの作品を成熟させるのには、構造的に向いていない」というのはおそらくだれの目にも明らかな事実でしょう。

「村上春樹インタビュー集」より
小説家の作業にとって一番大事なのは、待つことじゃないかと思うんです。何を書くべきかというよりも、むしろ何を書かないでいるべきか。書く時期が問題じゃなくて、書かない時期が問題なんじゃないかと。小説を書いていない時間に、自分がどれだけのものを小説的に、自分の体内に詰め込んでいけるかということが、結果的に凄く大きな意味を持ってきますよね。

今、世界の人がどうしてこんなに苦しむのかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。でも、物語という文脈を取れば、自己表現しなくていいんですよ。物語がかわって表現するから。
僕が小説を書く意味は、それなんです。僕も、自分を表現しようと思っていなくて、僕の自我がそこに沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんですよ。

「職業としての小説家」より
◎小説家は寛容な人種なのか
小説を書くというのは、とにかく実に効率の悪い作業なのです。それは「たとえば」を繰り返す作業です。ひとつの個人的なテーマがここにあります。小説家はそれを別の文脈に置き換えます。「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話をします。ところがその置き換え(パラフレーズ)の中に不明瞭なところ、ファジーな部分があれば、またそれについて「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話が始まります。その「それはたとえばこういうことなんですよ」というのがどこまでも延々と続いていくわけです。限りのないパラフレーズの連鎖です。開けても開けても、中からより小さな人形が出てくるロシアの人形みたいなものです。これほど効率の悪い、回りくどい作業はほかにあまりないんじゃないかという気さえします。最初のテーマがそのまますんなりと、明確に知的に言語化できてしまえば、「たとえば」というような置き換え作業はまったく不必要になってしまうわけですから。極端な言い方をするなら、「小説家とは、不必要なことをあえて必要とする人種である」と定義できるかもしれません。
しかし小説家に言わせれば、そういう不必要なところ、回りくどいところにこそ真実・真理がしっかり潜んでいるのだということになります。

僕は、長い年月飽きもせずに(というか)小説を書き続けている作家たちに対して――つまり僕の同僚たちに対して、ということになりますが――一様に敬意を抱いています。当然のことながら、彼らの書く作品のひとつひとつについては個人的な好き嫌いはあります。でもそれはそれとして、二十年、三十年にもわたって職業的小説家として活躍し続け、あるいは生き延び、それぞれに一定数の読者を獲得している人たちには、小説家としての、何かしら優れた強い核(コア)のようなものが備わっているはずだと考えるからです。小説を書かずにはいられない内的なドライブ。長期間にわたる孤独な作業を支える強靱な忍耐力。それは小説家という職業人としての資質、資格、と言ってしまっていいかもしれません。


◎文学賞について
僕もインタビューを受けて、賞関連のことを質問されるたびに(国内でも海外でも、なぜかよく質問されます)、「何より大切なのは良き読者です。どのような文学賞も、勲章も、好意的な書評も、僕の本を身銭を切って買ってくれる読者に比べれば、実質的な意味を持ちません」と答えることにしています。

文学賞は特定の作品に脚光をあてることはできるけれど、その作品に生命を吹き込むことまではできません。


◎オリジナリティについて
ポーランドの詩人ズビグニェフ・ヘルベルトは言っています。「源泉にたどり着くには流れに逆らって泳がなければならない。流れに乗って下っていくのはゴミだけだ」と。なかなか勇気づけられる言葉ですね(ロバート・ハリス「アフォリズム」サンクチュアリ出版より)。
僕は一般論があまり好きではありませんが、あえて一般論を言わせていただくなら(すみません)、日本においてあまり普通ではないこと、他人と違うことをやると、数多くのネガティブな反応を引き起こすというのは、まず間違いのないところでしょう。日本という国が良くも悪くも調和を重んじる(波風をたてない)体質の文化を有しているいることもありますし、文化の一極集中傾向が強いこともあります。言い換えれば枠組みが堅くなりやすく、権威が力を振るいやすいわけです。
とくに文学においては、戦後長い期間にわたって「前衛か後衛か」「右派か左派か」「純文学か大衆文学か」といった座標軸で、作品や作家の文学的立ち位置が細かくチャートされてきました。そして大手出版社(ほとんどは東京に集中しています)の発行する文芸誌が「文学」なるものの基調を設定し、様々な文学賞を作家に与えることで(いわば餌を撒くことで)、その追認をおこなってきました。そんながっちりとした体制の中で、作家が個人的に「反乱」を起こすことはなかなか容易ではなくなってしまった。座標軸から外れることは即ち、文芸業界内での孤立(餌がまわってこなくなること)を意味するからです。

自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。考えてみれば、僕らは生きていく過程であまりに多くのものごとを抱え込んでしまっているようです。情報過多というか、荷物が多すぎるというか、与えられた細かい選択肢があまりにも多すぎて、自己表現みたいなことをしようと試みるとき、それらのコンテンツがしばしばクラッシュを起こし、時としてエンジン・ストールみたいな状態に陥ってしまいます。そして身動きがとれなくなってしまう。とすれば、とりあえず必要のないコンテンツをゴミ箱に放り込んで、情報系統をすっきりさせてしまえば、頭の中はもっと自由に行き来できるようになるはずです。

すごく単純な話ですが、「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」というのがひとつの基準になるだろうとおもいます。もしあなたがなにか自分にとって重要だと思える行為に従事していて、もしそこに自然発生的な楽しさや喜びを見出すことができなければ、それをやりながら胸がわくわくしてこなければ、そこには何か間違ったもの、不調和なものがあるということになりそうです。そういうときはもう一度最初に戻って、楽しさを邪魔している余分な部分、不自然な要素を、片っ端から放り出していかなくてはなりません。

あくまで僕の個人的な意見ですが、もしあなたが何かを自由に表現したいと望んでいるなら、「自分が何を求めているか?」というよりはむしろ「何かを求めていない自分とはそもそもどんなものか?」ということを、そのような姿を、頭の中でヴィジュアライズしてみるといいかもしれません。「自分が何を求めているか?」という問題を正面からまっすぐ追求していくと、話は避けがたく重くなります。そして多くの場合、話が重くなればなるほど自由さは遠のき、フットワークが鈍くなります。フットワークが鈍くなれば、文章はその勢いを失っていきます。勢いのない文章は人をーあるいは自分自身をもー惹きつけることができません。
それに比べると「何かを求めていない自分」というのは蝶のように軽く、ふわふわと自由なものです。手を開いて、その蝶を自由に飛ばせてやればいいのです。そうすれば文章ものびのびしてきます。考えてみれば、とくに自己表現なんかしなくたって人は普通に、当たり前に生きていけます。しかし、”にもかかかわらず”、あなたは何かを表現したいと願う。そういう「にもかかわらず」という自然な文脈の中で、僕らは意外に自分の本来の姿を目にするかもしれません。


◎さて、何を書けばいいのか?
できればうまく説明がつかないことの方がいい。理屈と合わなかったり、筋が微妙に食い違っていたり、何かしら首を傾げたくなったり、ミステリアスだったりしたら言うことはありません。そういうものを採集し、簡単なラベル(日付、場所、状況)みたいなものを貼り付けて、頭の中に保管しておきます。言うなれば、そこにある個人的なキャビネットの抽斗にしまっておくわけです。もちろんそういう専用ノートを作って、そこに書き留めておいてもいいんですが、僕はどちらかといえばただ頭に留める方を好みます。ノートをいつも持ち歩くのも面倒ですし、いったん文字にしてしまうと、それで安心してそのまま忘れてしまうということがよくあるからです。頭の中にいろんなことをそのまま放り込んでおくと、消えるべきものは消え、残るべきものは残ります。僕はそういう記憶の自然淘汰みたいなものを好むわけです。
僕のすきな話があります。詩人のポール・ヴァレリーが、アルベルト・アインシュタインにインタビューをしたとき、彼は「着想を記録するノートを持ち歩いておられますか?」と質問しました。アインシュタインは穏やかであるけれど、心底驚いた顔をしました。そして「ああ、その必要はありません。着想を得ることはめったにありませんから」と答えました。
たしかに、そう言われてみれば、僕にも「今ここにノートがあればな」と思うようなことって、これまでほとんどなかったですね。それに本当に大事なことって、一度頭に入れてしまったら、そんなに簡単には忘れないものです。

ジェームズ・ジョイスは「イマジネーションとは記憶のことだ」と実に簡潔に言い切っています。そしてそのとおりだと僕も思います。ジェームズ・ジョイスは実に正しい。イマジネーションというのはまさに、脈絡を欠いた断片的な記憶のコンビネーションのことなのです。あるいは語義的に矛盾した表現に聞こえるかもしれませんが、「有効に組み合わされた脈絡のない記憶」は、それ自体の直感を持ち、予見性を持つようになります。そしてそれこそが正しい物語の動力となるべきものです。


◎時間を味方につけるー長編小説を書くこと
レイモンド・カーヴァーは、あるエッセイの中でこんなことを書いています。「『時間があればもっと良いものが書けたはずなんだけどね』、ある友人の物書きがそう言うのを耳にして、私は本当に度肝を抜かれてしまった。〜もしその語られた物語が、力の及ぶ限りにおいて最良のものでないとしたら、どうして小説なんて書くのだろう?結局のところ、ベストを尽くしたという満足感、精一杯働いたというあかし、我々が墓の中まで持って行けるのはそれだけである。私はその友人に向かってそう言いたかった。悪いことは言わないから別の仕事を見つけた方がいいよと。同じ生活のために金を稼ぐにしても、世の中にはもっと簡単で、おそらくはもっと正直な仕事があるはずだ。さもなければ君の能力と才能を絞りきってものを書け。そして弁明をしたり、自己正当化したりするのはよせ。不満を言うな。言い訳をするな」 (拙訳『書くことについて』)

時間を自分の味方につけるには、ある程度自分の意志で時間をコントロールできるようにならなくてはならない、というのが僕の持論です。時間にコントロールされっぱなしではいけない。それではやはり受け身になってしまいます。「時間と潮は人を待たない」ということわざがありますが、向こうに待つつもりがないのなら、その事実をしっかり踏まえた上で、こちらのスケジュールを積極的に、意図的に設定していくしかありません。つまり受け身になるのではなく、こちらから積極的に仕掛けていくわけです。


◎どこまでも個人的でフィジカルな営み
僕が思うに、混沌というものは誰の心にも存在するものです。僕の中にもありますし、あなたの中にもあります。いちいち実生活レベルで具体的に、目に見えるようなかたちで、外に向かって示さなくてはならないという類のものではありません。「ほら、俺の抱えている混沌はこんなにでかいんだぞ」と人前で見せびらかすようなものではない、ということです。自分の内なる混沌に巡り合いたければ、じっと口をつぐみ、自分の意識の底に一人で降りていけばいいのです。我々が直面しなくてはならない混沌は、しっかり直面するだけの価値を持つ真の混沌は、そこにあります。まさにあなたの足元に潜んでいるのです。
そしてそれを忠実に言語化するためにあなたに必要とされるのは、寡黙な集中力であり、挫けることのない持続力であり、あるポイントまでは堅固に制度化された意識です。そしてそのような資質をコンスタントに維持するために必要とされるのは身体力です。実に面白みのない、本当に文字通り散文的な結論かもしれませんが、それが小説家としての僕の基本的な考え方です。


◎どんな人物を登場させようか?
僕の場合、まず小説のアイデアがぽっと生まれます。そしてそのアイデアから物語が自然的に広がっていきます。最初にも申し上げましたように、そこにどんな人物が登場することになるか、それはあくまで物語自身が決めることです。僕が考えて決めることではありません。作家である僕は忠実な筆記者としてその指示に従うだけです。


◎誰のために書くのか?
その「気持ちよさ」を損なうことなく(言い換えればいわゆる「純文学」装置に取り込まれることなく)、小説自体を深く重いものにしていきたいーそれが僕の基本的な構想でした。

読者を念頭に置くといっても、それはたとえば企業が商品開発をするときのように、市場を調査して消費者層を分析し、ターゲットを具体的に想定するというようなことではありません。僕が頭の中に思い浮かべるのは、あくまで「架空の読者」です。その人は年齢も職業も性別も持っていません。もちろん実際には持っているのでしょうが、それらは交換可能なものです。要するにそういうのはとくに重要な要素ではないということです。どこでどんな具合に繋がっているのか、細かいことまではわかりません。でもずっと下の方の、暗いところで僕の根っことその人の根っこが繋がっているという感触があります。それはあまりに深くて暗いところなので、ちょっとそこまで様子を見に行くということもできません。でも物語というシステムを通して、僕らはそれが繋がっていると感じ取ることができます。養分が行き来している実感があります。
でも僕とその人とは、裏通りを歩いていてすれ違っても、電車のシートで隣り合わせに座っても、スーパーマーケットのレジで前後になっても、お互いの根っこが繋がっていることには(ほとんどの場合)気付きません。僕らは見知らぬもの同士としてただすれ違い、何も知らずに別れていくだけです。おそらく二度と会うこともないでしょう。でも実際には我々は地中で、日常生活という硬い表層を突き抜けたところで、「小説的に」繋がっています。僕らは共通の物語を心の深いところに持っています。僕が想定するのは、たぶんそういう読者です。僕はそういう読者に少しでも楽しんで読んでもらいたい、何かを感じてもらいたいと希望しながら、日々小説を書いています。

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