正義の迷走

ある事件とその周辺について書きたいんですけど、具体的な内容に
ついて書いてはいけない気がするので、わたしがよくやるパターン。
 
わかりにくく、極めてわかりにくく書くから最初から最後まで
「コイツ何言ってんだ?」
という内容になります。
 
時は19世紀後半!(ベベン!)
ある学問が研究される一つのきっかけが!(ベベン!)
 
まぁ…どんな狂気と思われるような思想すら、スタート地点から
狂気に満ちているという事は無いとわたしは思っているのですけど
その後の分岐が良くなかったんでしょうねぇ…
だから、未だに「人類史における悪の頂点の代名詞」のように使われて
いるんでしょうけども…
(わたしは悪のみにスポットライトを当てるやり方に疑問を
 持ってはいます)
おそらく、分岐が今の目線から見て「間違った方向」に進まなければ
異なる世界になっていただろうことは容易に想像できますし。
 
あぁ、話が脱線した。
 
時は流れ20世紀前半!(ベベン!)
 
間違った分岐に入ったまま、正解を求める研究は遅々として進まない中
本来同時進行で進められるはずだった対策だけが独り歩きし…
そして対策は暴走と迷走を繰り返し、根本的な理解は進まないまま
時だけが流れ…まさに、時の牢に置き去りにされたまま…
 
更に時は流れ21世紀前半!(ベベン!)
 
正解というボタンを掛け違えたまま…本来ならば、正義の反対は悪ではなく
別の正義と考えられるべき問題を、個人的な正義のみが暴走して
しまうのです(ベベン!)

さて。 

行為は大問題として、そもそも存在していた課題を解決させようと
したことは事実だったのではないかとわたしは思ってまして
誰も解決できない(解法がない)ことを疑問に思っていての行動…
結果は表立って評価されるはずが無いですけど、人間誰しもが
心の深層では「あの行動」が「解のひとつ」なのではないかと
意識してしまったかのように思えてなりません。
 
もちろん、その「解のひとつ」が今後も散発されるようなことは
あってはならないでしょう。
しかし結果だけを見れば、誰も考えないし実行するはずがなかったで
あろうことが実行されてしまった。
 
そして、なぜ「その行動をするに至ったのか」が、全体の総括として
(ある意味)
決着がついてしまっている現状でありながら、今でも一切社会問題の
一つとして提起されていないことに疑問を感じるし、第二第三の
ケースが今後も発生するのではないかとわたしは考えています。
 
例として、本来は取り替えるべき、機構の中に発生した歯の欠けた
歯車について一切考えず、歯の欠けた歯車を取り替えなくとも問題が
発生しない機構にすればいいんじゃない?
という対処療法的思考が「あの行動」に繋がったのではないかと
考えてしまうのです。
 
多分、多くの人にとって歯の欠けた歯車って視界に入らないから
そもそも「そんな歯車発生無いでしょ?」と多くの人にとって教育の
極めて早い段階から思い込まされている…

実際わたしも「あのレベル」の存在が社会生活に内包しているって
明確に理解したのなんて所謂大人になってからだし、学生時分では
ふわっと「存在しているらしい」程度しか知らなかったですからねぇ…
 
今後社会構造が変わったとき(変わらないはずありませんけど)
歴史としてその行為があったと広まり「その手があったか!」と
繰り返される前に「平穏な解」が出てくるといいですけどね…
 
あ、出ないことはわかりきっています。
解を出すためには、現状では必要だけど本当は邪魔なものがあるから。
そして、邪魔なものを本来の使い方でなく武器として殴りつける層が
存在するから。

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