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日本型雇用から見る『日本社会のしくみ』③

1.日本型雇用の特徴

日本社会を取り巻く暗黙のルールを紐解いて日本社会の問題点を明らかにする小熊英二『日本社会のしくみ』。

日本の働き方や教育を通し「日本人の生き方」をあらわにしました。(→①はこちら)世界の雇用の歴史を見ることで日本と世界の雇用の違いも確認しました。(②はこちら
日本型雇用慣行の形成を「終身雇用」という言葉を生み出したアベグレン『日本の経営』(1958年)から見ていくと、雇用は3層構造ができている、と指摘します。つまり、「大卒上級社員」「高卒一般社員」「中卒現場労働者」です。そして、女性の地位がきわめて低いこと(一般社員と現場労働者には一杯いるが、大卒上級社員には応募すらできない)と書いています。これは、明治期から現在まで続いている流れなので、詳しく見ていこうと思います。

①日本型雇用の「3層構造」とは

アベグレンが指摘した現場労働者は全員農村出身・貧しい家の出・工場で採用で一致し、大卒者は同じ大学かだいたい似た位置にある大学出身・大都市の中流家庭以上の出身全員が同じ時期に同じ地位で入社という点で一致し、ほとんどすべての面で大卒グループと中卒グループに接点がない点を指摘しました。また、彼は日本企業の特徴は①入社に際し職務に対応した専門能力を重視しない。②社内の3層構造はほぼ100%学歴と一致している。その際、低すぎてもまた高すぎてもいけない。③採用は能力重視ではなく、「人物」を厳重に審査しておりそのため学校の推薦を重視している。とくに1958年当時③は上級社員について顕著で、指定した大学出身であること、教授の推薦を受けていること、身体検査で障碍者を排除し、家族の素行も調査していました。そういえば、わたしの母親も新卒で入った会社(証券会社)の入社式で「身元が確かなみなさん」と言われたと言っていました。

日本企業では職務が決まっていない状態で採用されます。一度雇ったら能力がなくても解雇されませんでした。だから、入社選考を厳密に行うようになりました。そこで問われるのは学校の先生が見た「経歴・人物・一般能力」となるしかありません。つまりこれが日本型企業で「卒業した学校名が重要で何を勉強してきたかは重要でない」理由になるのです。

この雇用のシステムは明治期の官僚制度から伝わっており、じつは現在でも受け継がれています。「キャリア」「ノンキャリア」そしてその下部組織としての「地方職員(非正規)」これが官僚の3層構造です。そして、戦前はこれが法的に定められた身分で女性は下二つにしか入れませんでした。この制度は1869年に作られました。そして昇進(昇進は学歴と勤務年数)に伴う給与も、身分も(昇進の限度も)すべてこの階層に従って行われていました。例えば一番上位の階層のものは月給6千円だが一番下の官吏は12円といった具合に。(庶民の平均日給は0,5円程度)その階層に入れるものは学歴(大学卒業者、高等教育卒業者、中学校卒業者)で入り口が分けられていました。当時は月給で俸給を与えられることがそもそも珍しく、明治期の官僚制に伴う学歴重視の公務俸給制度は社会に強いインパクトを与えることになりました。この俸給は職務給ではなく、身分給であったことが重要で、天皇と国家に対する終生のコミットメントに対して終身保障を約束されていました。

当時の官吏の生活を見てみると、「無定量勤務」でしたが実働は3時間ほどでした。(午前10時登庁、午後二時退勤)。この習慣もその後だんだん伸びては行きますが、昭和まで夏季の勤務は午前中でしかも高等官の登庁時間はさらに遅く、下級官吏が仕事ができずに「新聞と雑談で時間をつぶす」といった具合でした。

また官吏は退官後の終身保障として恩給が与えられ、その金額も到達した官位に連動しているものでした。官位が高いほど、俸給は高く、勤務時間は短く、恩給も多い。彼らの俸給は身分に合わせて与えられたもので、職務の対価でもありませんでした。日本におけるこの身分制度は8世紀からの律令制に由来する位階と同等にとらえられていたため、給与等級以上の身分、ステイタスとなりました。

この流れは官営企業から民間企業へ波及していきました。そして、それは戦後の大企業に受け継がれ現在につながっているのです。

2.慣行の形成

日本の官僚制官僚制度は、軍隊から来ました。(いまでも、軍隊にたとえた訓示などは聞いたことがあると思います。)ではその軍隊制度はどこから来たのでしょうか。

日本の官吏登用試験制度はプロイセンの制度を参考に制定されました。しかし、制度導入当時、高等教育を受けた人材比率に差がありました。急速に近代化を推し進めたかった日本にとって、人材の囲い込みは必要でした。そのために帝大を卒業したものは一括採用として無試験で職務関係なく、上級官吏として雇い入れる、二年に一度異動をさせる(資格等級を昇進させるため)というサイクルを確立しました。(当時大学は7月卒業だったため、現在でも職員の移動は7月が多くなっています。いったん組織内で形成された慣行はその根拠がなくなっても継続するという証左ですね。

対してアメリカでは公務員の多くがコネ採用だったため、批判が高まったため、職務分析の導入でした。これにより職務能力のないもののコネ採用を防ごうとっしたのです。プロイセンでもアメリカでも一括の採用はなく、空きポストがあったときに部内か部外から公募され、公開競争により任用する、という方式になりました。その際に同一労働同一賃金給与を原則ともなりました。現在のドイツ連邦共和国の基本法でも官吏の任用と昇進は「専門的技量」によると明記されました。

3.大部屋勤務の起源

日本では大きな部屋にたくさんの机を並べて仕事をします。これはドイツやアメリカのように職務の範囲が明確でないために可能になったものです。また、急ごしらえの行政組織だった日本では、行政省庁をとりあえず作ってしまって内容はおおざっぱなものでした。そのため、職員の職務と責任が定められていませんでした。これも現在まで基本的に変わっていません。

建造物とは、それを利用する人々の意識を反映します。だから日本の官僚制度の上では職員は責任があいまいで、職務範囲もはっきりとせず、学校の成績が優秀だったものが昇進をしていくシステムになったといえます。そしてこの流れはそのまま民間企業へ、そして現在の雇用制度へと広がっていきました。




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