『日本社会のしくみ』④~戦後生まれた「社員の平等」と二重構造
小熊英二『日本社会のしくみ』を読んでいます。
日本社会で生きていくには3つの生き方がある(①はコチラ)、と筆者は語り、世界の働き方と日本のそれがどのように違うのか(②はコチラ)を見てきました。そして、日本型雇用の歴史(③はコチラ)を追うことでどのようにして、雇用が生まれたのかを記しました。
①戦後「会社員」が生まれた
戦争は雇用のありかたを大きく変えました。戦争により、安価に労働者を雇えなくなった企業は次々賃金の上昇をせざるを得なくなり、戦争によるインフレで金融資産が目減りしたために労働者の地位は相対的に向上しました。
戦後、占領軍により労働組合が結成されました。当時の労働争議で掲げられていたことは「身分制(職員、工員など)の撤廃」「企業幹部の戦争責任」そして「産業復興」でした。
ヨーロッパでは職能別に出来上がった労働組合ですが、日本では企業別、事業所別でした。なぜなら労働組合を作った中心の人々は、疎開、というかたちで帰るべき田舎がなかった人々で、彼らにとり企業は最後のよりどころとなっていたためだからです。また、当時は労働者も上級職員もみな共通の生活苦(食料不足)がありました。ですから、大卒も中卒も同じように貧しく同じ組合員として経営者と労働争議をすることが可能でした。以前のような無能でも学歴があれば経営幹部になれる、といった身分制度が撤廃され、どちらもあわせたかたちで「社員」という呼称が生まれることになりました。
その時に職能による時給社員を撤廃し、「生活給」が導入されました。生活給は労働者の年齢と扶養家族数で決まる基本給のことです。敗戦直後の飢餓情況では、家族に必要な食料を買う賃金が何よりも大事だったのです。また当時の「社員」はみな軍隊の出身だったため、労働争議にも軍隊の様式が導入されました。それは「考課」における軍隊の評価項目(知能、識見、技量、学識)の導入でした。
しかし、1949年のデフレ不況により、こういった「平等」は失われていきました。不況になって解雇される「社員」はもとの工員ばかりだったのです。そのため、労働組合も瓦解していきました。しかし、残った制度もありました。上級職員も、工s員も全員が幹部に昇格できる、という体裁です。学歴で最初のスタート等級が違う、工員から幹部への道はとても厳しいという状況が残ったものの、資格制度として残り、資格制度としての「平等」は達成したのです。
②生き方の二重構造の形成
社員の資格制度上の平等を達成した状況の中で定着したのは勤続年数重視の傾向です。経営側は敗戦後にあったような「生活給」を見直し、人事査定で賃金を決めたかった。ですが労働側は戦前にあったような恣意的な査定や学歴による不利を嫌いました。その妥協点として浮上したのが「勤続年数」です。勤続年数は平等だったし、経営側も熟練度で賃金を支払うのは年齢と家族構成で支払う生活給よりは好ましいと考えました。また、中高年の現場労働者にとっても勤続年数での能力給は有利に考えられました。勤続を能力に解釈替えすればホワイトカラーの年功カーブも得られると判断したからです。
勤続年数の採用が生まれる流れとともに女性はその構造から排除されていきました。女性には「生活給」が関係ない、という考えのもとに外されていったのです。もうひとつ、この流れは大企業から始まったため、社員の平等から外れていたのは中小企業でした。1950年代、社員の平等を達成した企業と中小企業の「二重構造」が社会問題となりました。その上この二重構造を追認し、強化する形で社会保障制度の整備が行われました。年金制度も健康保険組合も「会社」と「ムラ(その他の共同体)」で作られていきました。それにより「大企業正社員」と「それ以外」の分断が強化されることになったのです。
③高度成長と学歴
見てきたように、他国の企業では現在でも上級職員、下級職員、現場労働者の三層構造が取られています。それぞれの職務に応じた資格や学位、専門能力が要求されています。この場合社会が高学歴したらそれに応じて必要資格が変わるだけです。(例えば昔は大卒が上級職員に必要な学歴ったが、今は博士号の取得が求められる、といった具合です)
日本にはこの職能給が定着しなかったので、学歴と年齢で賃金を決めていました。すると、教育改革により、戦前はごく一部の子どもだけが進学できた高等教育にほとんどすべての子どもが進学するようになりました。大企業であればあるほど企業秩序を動揺させ、中卒の人材確保に躍起になりました。わざわざ進学率の低い地域に求人を出すほどに。学歴が上がると賃金ベースが上がるからです。そのため大企業の多くは政府に進学の抑制を要望しました。現場の職工に高学歴が必要なかったからです。大衆蔑視的な発言とともに進学抑制策を説く経営者や政治家に人々は厳しい批判が起きました。人々は学歴が上がれば(具体的には高校を卒業すれば)現場労働者ではなく、せめて一般職員になるのだと期待しました。
④学校紹介による就職と新卒一括採用
現在までそうですが、企業は採用にあたりなんの職務に就けるのかを説明しない傾向が強いです。1960年代中盤、企業への就職は学校紹介で行われていました。生徒はほとんどが「教師」の勧めで就職先を決め自分で決めた人はごくわずかでした。戦前から日本では学校紹介が労働者の品質保証の機能をはたしていました。教師は生徒の就職の世話をするのが学校の責任だと考え、企業に訪問したり職安と連携して生徒の採用を働きかけました。1960年代は日本で新卒一括採用や終身雇用が定着した時代です。現場労働者であっても容易に解雇できなければ、採用から厳選せざるを得ません。そのため、紹介のない個人的応募は拒否していました。
もちろん、進学率の上昇は大学にも及びました。大企業は指定校制度を取り、数校の有名大学から紹介を受けた学生だけを採用しました。しかし、大学の新設(そのほとんどが私立文系大学)と卒業者の増大に企業は備えておらず、そもそも大学の種類、学部の内容で賃金を代えている企業はほとんど存在していませんでした。その状況で指定校制度を継続することもできなかったため、もともとは中、高卒労働者がついていた職務に大卒社員を配置することになりました。このことは学歴への期待と社会の実情にずれが生じ、社会不安を発生させました。
また日本では採用時には職務を告げず、応募者の期待と異なる仕事をさせるため労働者の意欲の低下を招き、離職率の増大となりました。同学歴(大卒など)で現場労働者になるものと上級職員になるものが生じる処遇は企業への怨恨も生みました。日本は学歴別の秩序に慣れていたため、同じ学歴で身分が違い同じ身分なのに学歴が違うことは重大な社会問題となりました。そして今までと違う点として、当然のことながら学歴と昇進にずれが生じました。大卒職員を昇進させ続けるためには無駄なポストを作り続けるか、もしくは組織を大きくするしかありません。この不毛な戦いは今も続いています。
学歴重視の秩序は、その維持が困難になった時に「学歴しか能力を測るスケールがない」ため同一学歴・同一賃金へとまとまっていく流れになりました。
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