日本初の推し活
「源氏物語が読みたい」と1000年前に等身大の薬師仏を作らせて、一日中一心不乱に祈っていた女の子がいます。菅原孝標娘です。
沼にはまった女の子
父親の仕事の都合により東国で暮らすことになった菅原孝標娘さんは、義母から聞く宮仕えのキラキラした話、とりわけ当時大人気だった『源氏物語』の話を聞いて即のめりこみました。日本史上初の沼にはまった、という人で有名です。寝ても覚めても源氏物語のことばかり。当時は書店などありません。物話をどうやって知るかというと、読んだ人から話してもらうのです。本のあらすじを説明したことのある人はお分かりかと思いますが、あらすじを詳細にことこまかに説明するというのは大変難しいことです。菅原孝標娘さんは、毎日毎日もっと聞きたい、もっと詳しく、とねだりました。さすがの家族もうんざり。どうにかして全部読めないのか、と考えた末にできたのが等身大の薬師仏。結果、願いが叶って都に戻ることになり、途中で乳母を亡くすなどのトラブルもありながら、菅原孝標娘さんは、源氏物語全巻を手にするのでした。後年、そのころの思い出を描いた『更級日記』では、このことを若干苦々しい口調で描かれています。若いころの推し活をちょっと恥ずかしい、と思うのは今も昔も変わらないのかもしれません。
女子熱狂コンテンツ
ここまで女子を熱狂させるコンテンツだった源氏物語ですが、ストーリー内容だけではなく、上級貴族の生活様式や、さまざまな姫たちの生き方、教養、文化もあこがれの的でした。ちょっとした小物や香りが、ヒロインの心情を表現し、人物の性格や立場を伝える隠喩アイテムとして使われています。とりわけ香りは話を引き立てるかなり重要な小道具として使われています。そこで、源氏物語には、香を使って香りを焚きしめたりしなくとも、香りを放っていた人物をご紹介します。
光源氏は生まれたときから体からいい匂いが香っていたと書かれており、特別に香を焚きしめなくとも特別にいい香りが漂っていた、と書かれています。光源氏の香りは、うっすらした花の香りでした。
この勝手に漂う香りをぐんとパワーアップした人物が源氏物語の後半に登場します。薫です。薫は一般的には光源氏と正室である女三宮との間の子です。ところが実際の父親は光源氏の息子夕霧の親友でもある柏木でした。柏木は光源氏の家で蹴鞠の会などを行っているときに、ひょんなことで部屋の中にいた女三宮を見てひとめぼれをしてしまうのでした。その結果生まれたのが薫です。薫の香りは100歩先からも香っていたと言われており、薫がどこにいてもみんな気づいてしまう。それほどの匂いを漂わせていました。じつの息子である夕霧も、実の娘である明石中宮にも源氏の香りが遺伝していません。薫のライバル、匂宮は明石中宮と今上帝との間の子ですが、薫があんまりいい匂いがするもので、自分自身にも着るものにたくさんの香を焚きしめていました。だから匂宮と呼ばれていました。自分の直接の子、孫には遺伝せず、不義の子には自らを超える香りを与えるというところに紫式部の描く運命の皮肉を感じます。
挙体芳香
身体からいい香りを放射することを「挙体芳香」というのですが、世界には実際に体からいい匂いが漂っていた、と歴史書に残されている有名人がいます。
まずはクレオパトラです。クレオパトラはバラの香りがしたと言われています。バラを敷き詰めた寝具で眠り、バラで作った香油を塗り、バラのお風呂に入りバラを食し、バラの花に囲まれて生活していました。ヨーロッパ圏ではこの頃からいかにしてバラをはじめとする花の香りを抽出するか、ということに大変熱心でした。その熱意は今の香水につながります。
そして、もうひとりがきっと紫式部に影響を及ぼしたであろう人、楊貴妃です。楊貴妃は唐の玄宗皇帝の寵愛を受けた妃です。源氏物語の最初の話「桐壺」には光源氏の両親である桐壺帝が桐壺の更衣を寵愛しすぎたことから「もろこしにも、かかる事の起りにこそ世の乱れ悪しかりけれ」つまり、かの唐の国でもこういった寵愛によって世の中が乱れてしまったじゃないか、と臣下の者たちから眉をひそめてみられた、と書かれました。これは、玄宗皇帝の寵愛で国が傾き、安禄山の乱で命を落とす楊貴妃のことをベースにしています。
世を乱すほどの美しさを持っている人物が、人々を魅了する香りを振りまいている、というモチーフも楊貴妃から得たのかもしれません。源氏物語は創作ですが楊貴妃は実在の人物です。ほんとうに体から芳香を放射することなどあったのでしょうか。じつは、唐の時代の医学書には体を香らせる方法が載っていました。体から芳香を放つ方法、毛穴から芳香を放つ方法、などいくつかの種類がありましたが、いずれも沈香や丁子、麝香などを混ぜ合わせた丸薬を一日三回ほど服用すると四十日ほどでどうやら体のあらゆる場所からいい香りを放つそうです。実際に服用したらだいぶ健康に問題ありそうですので、お薦めはできませんが、楊貴妃の香りがどのような香りだったのか知りたいところですね。
このようにたったひとりの人物についてもここまで考えて描かれている源氏物語はやっぱり最強の推し活コンテンツなのです。
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