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没後190年『木米』~文人はいつも竹林に遊ぶのだから~

サントリー美術館で開催中(~3月26日まで)の「没後190年「木米」展」。江戸時代の陶芸の人だよね、というあさー---いイメージで見に行ったもの知らずなので、結果楽しくてめろめろになったので、張り切ってレポートしていきます。

木米ってだれ


木米といえば江戸時代の陶芸の人、なんです。確かに。けど、それだけじゃなくって!多才。幼いころ、池大雅に学んだそうで、そりゃあ、文人画だわ。と思いました。とはいえ、池大雅が亡くなったのが1776年で、木米が生れたのが1767年だっていうから、最晩年にかわいがっていた友人の子ども、といったところか。木米は茶屋の息子さんですよ。
子どものころ池大雅の作品を生で(とは限らないし、なんなら教えてもらった、という記述などはどこにもないのですが)見るとこんな天才になるのか!!(もちろんそれだけじゃないのはわかってますよおお)
それはともかく、儒学者で篆刻家の高芙蓉に学び、関西圏に当時いた多くの文人と交流することになります。そして、29歳で木村蒹葭堂の書庫で清の『陶説』に出会ってオタク心に火が付いたんだろうなあ…(と作品を見てしみじみ)


サントリー美術館『木米』のフライヤー

このポスターの上にある陶器の作品は「染付龍濤文提重」といいまして、トーハクに普段はあります。
木米の探究心を凝縮したような作品で、明時代後期のものを忠実に再現…なにしろ、形や絵付けだけではなく、角のところがちょっと絵付けがはがれていますね、そんな感じも再現…
いいなあマニアっぷりがたまらない!と最初からウキウキポイントを刺激してくれる作品です。
この偏狂的な愛…と言ってしまいますが、愛は留まるところを知らず、ですよ、
なにせ、「陶節』を最後は翻刻するくらいですからね。本気度は計り知れないというもの。そんなこんなで陶芸を始めるのは30歳。その後あっというまに頭角を現し、5年後には加賀前田藩で当時失われていた九谷焼の復興に務めたり。
その後、絵画などにも進出した木米と彼の交友関係から京都文人界隈を垣間見られて、ああ!私も文人になりたい~~~

文人になりたい①そもそも文人てなに


ところで、文人とはどんあひとなのでしょう。辞書を引いてみますと、中国の伝統社会に生じたひとつの人間類型であり、「学問を修め文章をよくする人」の意です。まあ、もともとは中国の周や漢からあった考え方で士大夫の人が学問を修めて風流を解するといったところでしょうか。ようは、別に収入があってプロの芸術家ではない、というのがもとの形です。アマチュアリズムなんですね。
それが宋ころから詩や画を専門にする人が文人と名乗るようになり、南宋画と言われるやわらかーい感じの山水画を「文人画」なんていうようになりました。

伝夏珪筆「山水図」 南宋時代の絵画。トーハク所蔵

そう、心の中の理想的な山水をえがく…こんな感じが文人が描く南宋画なわけです。

文人になりたい②日本における文人


江戸時代以降は中国的な教養を身につけた人物を文人といいました。武士・農民・商人といった身分や出自に関係なく、職業とか、専門家であるかは問いません。都市にも地方にも文人がわらわらいて、自分たちで楽しく交流した。え?サークルみたい?そう、サークル活動ですよ。
もともと中国では琴詩書画の世界に遊んでいましたが、江戸時代、琴(音楽)にまで関心を示した文人は必ずしも多くはいませんでした。けれど書画や詩作の分野には同好の士が集いそれはそれは熱心に活動していました。その時に書画のお手本となったのが、江戸時代に長崎を通じ請来された各種の中国画や画譜類です。で、この頃詩文・書画だけが入ってきたわけではなくて、こういったことに精通して絵を描ける!文人趣味を好んだ僧なんかも入ってきたわけです。案外人もものも交流してるんですね。そこに、平和が続いて社会全体で経済の発展が加わって裕福な貴族や大名だけではなく、文雅を愛好するのは裕福な町人に日本の文人層は拡大しました。彼らの営みは江戸時代の成熟し洗練した文化を支える大きな力のひとつとなるのでした。彼らは柔軟に宋風の様々なものだけではなく、そこに日本伝統の狩野派や土佐派、浮世絵、西洋画などなどあらゆる知識を吸収して文人画を作り上げたのでした。

池大雅「楼閣山水図屏風」トーハク

そういうわけで、木米が通った文人仲間木村蒹葭堂は大阪の造り酒屋と仕舞屋(金融業みないなもんですね)の息子で、まあそれはそれは裕福。子どものころから病弱で、そのためにいろいろなことが勉強できました。その後、家を継いで商売もやるんですけど、何せ「浪速の知の巨人」というのですか?へー。と思ってみてみたら、書画に詳しいのはもちろん、オランダ語とラテン語もできるってなにそれ。スーパーな方でした。なにしろ凄すぎて幕府に出る杭として打たれるくらいですからね。(作っているお酒が石高違反の罪に問われたりする)
訪れる人も多くのべ9万人。ちゃんと記録をとっているあたりもすごすぎ。
木米の話じゃなくなったので、戻します。
文人は木村蒹葭堂のような大商人というパトロンがいるからこそ、学ぶこと、作品をつくること、その講評などすべてが完成度高くできたんですよね。
この頃流行したものが禅僧、売茶翁ばいさおう(1675~1763年)による煎茶。木米は煎茶器をたくさん作っており、この煎茶にも多くの文人たちが集っていました。その中でも私の目についたのは三彩鉢。

サントリー美術館所蔵 木米 三彩鉢


たまたま私が持っている香炉も三彩なので「おっ!」と目についたのですが、これは中国の景徳鎮で作られる三彩をまねて。でも真似だけではなく、器はちゃんと煎茶椀なわけです。よきものをよく見たい!というやっぱり留まるところを知らない愛がいっぱいの木米展は今月のおわりまでなので、どうぞ見てくださいね

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