ちえちゃんの背中
「私、ちえちゃんだから。笑」
これは、私の母の口癖の様なものだ。
「ちえ」とは、「知恵」のこと。本名ではない。
本人曰く、いわゆる学歴的な知識を付ける間もなく、中学を出てから上京した後、看護助手兼家政婦として働き続け、結婚後は子育てをしながら再び働き続けてきた中で、知識よりも知恵を自分なりに身に付けて生きてきた、ということらしい。
例えば、料理をする時の野菜の切り方一つ、調味料を入れるタイミング、火を止める間合い一つから、自分の故郷の味(岐阜県の片田舎)を再現する手捌き。
例えば、私が小学生のころ、自分の味覚に納得いくキャラメルがない、という理由から、自らの勘と感覚で、キャラメルを作り始め、我が家の定番となった手作りキャラメルの甘い匂い。
今でも思い出す。
それを当たり前のものとして、ぼんやりと眺めていた当時の私。
「ないもの、満たせないものは、自分の手で作る。」
それが、母に染みつき、見出した1つの指針なのだろう。
料理、編み物が最たるものではあるが、服を選ぶときの色やフォルムのバランス、(今はほぼしないけれど)化粧のいろは。
きっと他にもあるであろう、生活の何気ないこと。
今の私の日常に根付き、当たり前にあるもののには、大きく、起因しているであろう母の知恵。
どれも特別なレクチャーを受けた訳ではなく、出がけの一言、何気ない会話、台所に立つ背中などから、感覚で私に継がれたものだ。
知恵を分かつことは、感覚を継ぐこと、だ、と、ふと気づくと、慈しみ深さが増すのは不思議なもの。
とはいえ、わたしは、母が未だに好きではない。正直、反面教師といってもよい。
それとこれとは、話が違うのが、世の摂理というものだ。
ただ、嫌でもなんでも、感覚で継いだものの実りは無駄にしたくない、と思う。今後
わたしをことばにする研究所、略して、わたこと、のコラムを読んで、「感覚を継ぐ」という言葉に、立ち止まった。
そこで思い出された、私が、感覚を継いだ、こと、を記してみよう、と思った時に、真っ先に脳内に出てきたのが、ちえちゃん、こと、母のことだった。
正直、少し釈な部分もあるが、こうして、ことば、にして記すことで、ノスタルジーでは終わらない、進行形を感じることができた。
特筆すべきキャリアも環境も持ち合わせていないなりに、わたしが生きてきた、生きている日々には、きちんと、感覚により継がれたものが息づいていることに気づいたこと。
まずは、それを大切にしたい。
今後も、わたこと、は、わたしにとって、楽しみでもあり、振り返りの場になるだろう。
丁寧で、シンプルな、ことばにまつわる空間は貴重なので、期待とともに感謝を。