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完璧な親なんていなくても、きっと幸せになれると思う大晦日

年末に自分のトラウマと出会う出来事があった。

毎年、年末年始は義実家へ帰省する。
が、夫がたてる帰省スケジュールがなかなかの強行スケジュールなのだ。

その中には確実に私の宿敵、偏頭痛を引き起こすトリガーが含まれてる。

泣いて訴え、スケジュールを変えてもらったものの、モヤモヤが残る。
夫は行動で愛を語る人間だ。
優しい言葉なんぞかけてくれない。
行動としてはスケジュールを変えてもらったものの、どうやら私の体調のしんどさに共感してもらえないことに対して、私は何かくすぶりを感じているらしい。

いったい私の中の何がそんなに反応しているんだろう。

思い起こせば、昔から私は自分の体調への気遣いに対して、過剰反応する傾向がある気がする。
体調を蔑ろにされたと思うと、ひどく怒りを感じる。


思えば、子どもの頃、病気の時に優しくされた記憶がない。
子どもの頃の私が体調不良を訴えると、母は「え゛ぇ!?」とあからさまに機嫌が悪くなったり、舌打ちをしたりする。

時々母は知人に
「この子ったら、いつも旅行の日に熱出したりしてたのよ!もう計画してたし、熱でも連れて行ってたわよ」とネタのように話す。
私には4つ上の兄がいた。
家族旅行は兄の旅行の機会でもあるので、そう簡単にキャンセルできなかったんだろう。
そして旅行先で熱を出している子どもなんて、さぞかしお荷物だったことだろう。

今もなお、「体調を気遣ってもらえる/もらえない」という場面で過剰に反応してしまうのは、意識下でこの事を思い出しちゃうからなんじゃないかと思った。

「スピリチュアル」とか「インナーチャイルド」とかいうのは、胡散臭くて好きじゃない。
だけど、まぁ特にお金をかけず今より生きやすくなるのであれば…と思い、
イメージの中で子どもの頃の自分を抱きしめてみる。
共感する言葉をかけてやる。
寄り添う。

寄り添えば寄り添うほど、あぁこれは過去の出来事だったんだなぁと思う。
今とは違う。

私と母の関係は良好で、たくさん愛情表現をしてくれた。
たぶん日本の家庭では珍しく「愛してるよ」と日常的に言い合う家庭だった。
病気の時はともかく、全体的に母には明るく、優しくて可愛らしいイメージがある。

が、完璧な人間なんていない。
つまり、完璧な母親もいない。
私も含め、子どものトラウマを作るなんて人間同士が成長の過程で一緒に生きてれば当たり前のことだと思う。
どんなに気をつけていても、何気ない日常の何気ない言動で子どもは傷つく。

でも、なんてことない私がこうしてトラウマを克服できるなら、きっと娘だってできるはず。
時間はかかっても、トラウマを乗り越えて「新しい自分として生きる」「そんな欠点も含めて母を愛しく思う」という経験ができる、という意味ではむしろトラウマはあったほうが良かったのかもとすら思える。

なんてことない普通の人が普通に経験する幼少期のトラウマ一つ一つ向き合うことが、「きっと大丈夫、幸せになれる」という自分の娘への信頼に繋がっていく気がする。

そんなことをベットの中で考える大晦日。
結局出発前に私が発熱して、帰省はキャンセルとなりましたw
旅行当日に発熱って、やっぱり子どもの頃と変わってないのかも。
でも今は、同行を断ることもできるし、側にいてくれる家族もいる。
私はもう大人なんだ!


…ところで今更なんだけど、「トラウマ」って言葉の使い方合ってるのかなw

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本年も私たちの日常や娘の成長記録を見守り、スキや温かいコメントをいただき、ありがとうございました。皆さまのおかげで、日々の小さな喜びを大切に感じることができました。

2024年も引き続き、娘の成長や日常の幸せをお届けできればと思っています!どうぞこれからもよろしくお願いいたします。皆さまにとって、2025年が健康と笑顔に満ちた素晴らしい一年となりますように!

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