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34.螺旋(3)- iv、落書き

「33.螺旋(3) - iii、巨人の間」より続きます。


(復習です。) ゴンザーガ家の統治していたマントヴァパラッツォ・テ(テ宮殿)にある「巨人の間」の装飾についての話が続いています。

やがてゴンザーガ家は没落し、マントヴァはオーストリア占領下におかれました(1630年、マントヴァ併合)。
さらにフランス軍に支配された時期、再びオーストリア占領下になった時代などを経て、マントヴァは最終的にイタリアという統一近代国家の中へと組み込まれるに至りました。


3.巨人の間の落書き


(1)落書き

修学旅行で古都に行った時、あるいは観光でどこか名所に行った時、心無い「落書き」を見たことはないでしょうか。

子どもの頃、学校の机に何か文字や絵が彫られているのを見たことはないでしょうか。彫らなくとも、鉛筆で落書きするくらいなら、誰でも多少なりとも経験があるかもしれません。

現在、巨人の間には700もの落書きが認められています。彫られたものばかりでなく、インク、鉛筆、血などで書かれたりしたものもあります。


***

(図14)の落書きは、どこでしょうか。
北壁(図15)の一部です。

(図14、「33.」の図1と同じ)

33, パラッツォ・テ、ジュリオ・ロマーノ、マントヴァ、巨人の間、北、らくがき、scritta1

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(図15、北壁面)

31, 図13、巨人の間、ジュリオ・ロマーノ、パラッツォ・テ、マントヴァ、北壁、grande Giganti giulio romano palazzo te mantova Nord

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ここです(黄色円内)。

(図16)

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落書きは、当然のことながら、人の背の高さで届く範囲に集中しています。

そして落書きのほとんどは、「自分の名前」です。(今で言う「自撮りしてインスタにあげる」という行為と、さほど変わらないのかも知れません。)


例えば(図14)では、

1.「MATHIA WILTHABER」

2.「BOIOLI   /  1748」

3.「GALETTUS」

4.「EVCASI」

などの名前や年記が判別できます(図17参照)。

(図17)

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(2)オーストリア軍兵士たち


パラッツォ・テは、愛人との逃避行の場、公的外交の場を経て、ゴンザーガ家没落後の一時期に、オーストリア軍の野営地となりました。
落書きのなかには、その時の兵士たちの名前が数多く認められます。明らかに非イタリア系の名前なので判別しやすく、またそれらの多くが1630年のマントヴァ併合後の「年記」を伴っています。

・「Hans Roth von Wien 1631 den 6 iunii」(ウィーンのHans Roth 1631年1月6日)(北壁)
・「Simon Lindtner von Wien den12 maii anni 1631」(ウィーンのSimon Lindtner 1631年5月12日)(北壁)

など。彼らは併合直後の兵士たちです。

また、役職名が入った落書きもあります。

・「Franciscus Neudecker, tambor」(Franciscus Neudecker、太鼓係)(南壁)
・「Franz Leopold Nicolaus Gisk(?), felt trompeter anno 1735 」(Franz Leopold Nicolaus Gisk(?)、ラッパ吹き、1735年)(南壁)

などです。

イタリアに来た記念でしょうか。
面白い部屋に来たので自分の痕跡を残したくなったのでしょうか。


(3)マントヴァ貴族


マントヴァの貴族の姓の名前も、いくつか見つかっています。

これらはおそらく、オーストリア兵士たちの落書きよりも、古いものです。
まだ巨人の間が現役で外交場や宮廷人たちの集う場所として使われていた時に、マントヴァ貴族が君主の宮廷の一室に落書きを残したのでしょう。
待ちくたびれた貴人の暇つぶしでしょうか。滅多に入れない部屋に来た記念でしょうか。


「A. [...] Petrozanus」とあるのが見えますでしょうか。
これは、マントヴァ貴族の「Petrozzani家」の誰かの名前です。

(図18:図14と同じ。北壁)

33, パラッツォ・テ、ジュリオ・ロマーノ、マントヴァ、巨人の間、北、らくがき、scritta1



(図19)

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目立たせるために四角で囲むというのも、よくある表現です。

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マントヴァは、こうした落書きを埋めて消去することをせず、薄く保護してこのまま残すことに決めました。

これは、非常に興味深い決断です。文化財とは「フェデリコ・ゴンザーガ2世とジュリオ・ロマーノの時代の完成された壁画作品」であるというばかりではなく、その壁画の被ってきた歴史的変遷もまた文化財の価値に含める、という考え方に基づく決断だからです。

というわけで、2002年には、巨人の間の約700の落書きの書き起こしが完成し、ネット上でも発表されています(注3)。その中には、イタリア語、ラテン語、ドイツ語もあれば、愛の言葉も、罵倒語もあります。朝食に食べたものを列挙した人もいます。
最も新しい年記は20世紀半ばということですから、宮殿が文化遺産として適切に管理されるようになって以降は、新しく落書きされることはなかったようです。


4.ウルビーノの「落書き」展


そして近年、別の町ですが、「落書き」がとうとう展覧会の主役になりました(とは言っても、バンクシーの話ではありません)。

落書きも歴史的痕跡であり、一種の文化遺産だという考えによって、とうとう(歴史的な)「落書き」が展覧会の主題として選ばれたのです。

2017年3月~5月、ウルビーノのパラッツォ・ドゥカーレ(公爵宮殿)にて、「石が伝える:読むべき宮殿」展が開催されました。

ウルビーノ君主の住まう宮殿、パラッツォ・ドゥカーレ(公爵宮殿)には、実に5000以上の落書きがあるそうです。一番古いものは1453年の落書きで、一番新しいものは「mirco / 2000」(mirco, 2000年)です。
召使や兵士、宮廷人たち、教皇庁随行員、その他の来客、観光客などの落書きだけではありません。君主一族の落書きもあります。一族の子どもの成長を記録するため、身長の印を付けた痕もあるそうです(「はしらのきずはおととしの~」(童謡「背くらべ」)とまったく同じです)。

このパラッツォ・ドゥカーレの落書きを20年以上も研究するウルビーノ大学ラファエッラ・サルティ先生の研究成果を基に、この展覧会が実現しました。


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以下のサイト(イタリアの新聞社)に展覧会の紹介が出ています。


サイト内の一枚目の写真は、この展覧会の黄色いポスターです。
文字でなく絵で描かれたタイプの落書きがいくつか書き起こされています。また展覧会タイトルの文字は「碑文風」(「碑文」「石碑」なども、公的か私的かという区別はあるかもしれませんが、石を刻むという点では落書きと同じことをしています)です。

サイト内の二枚目の写真は、展覧会の様子です。
壁の落書きの横に「QRコード」が貼ってあります。展覧会の客がそのコードをスキャンすると、その落書きの解説が読めるというわけです。展示手法としても非常に斬新で実験的な試みが行われました。

サルティ教授は「落書きは昔のFacebookのようなものだ」と説明しています(注4)。これらの夥しい落書きは、誰かに読んでもらうための電子的な痕跡を残している私たちとも、無縁ではあり得ません。これらの落書きは、書く行為、書くことで誰かに自分の痕跡を伝えたいという欲求とともに、今に生きる私たちと繋がっています。

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最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。


(注3)「巨人の間」の落書きの書き起こし記録の発表は以下のサイトを参照。Scritte sugli affreschi nella camera degli Giganti . および、Scritte Giganti file. 


(注4) I graffiti di Palazzo Ducale, secoli di storie incisi nella pietra - Ifg Urbino (uniurb.it) 


落書きの図版(図1、14、16、17、18、19)の引用元
Scritte sugli affreschi nella camera dei Giganti (palazzote.it)
( Ugo Bazzotti, Scritte sugli affreschi nella camera dei Giganti, in “Gazzetta di Mantova” nel febbraio 2002 )


※いつも読んで下さって、本当にどうも有難うございます。前期授業の準備に入りますので、しばらくお休みいたします。


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