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32.螺旋(3)- ii
「31.螺旋(3) - i 」より続きます。
ゴンザーガ家の統治するマントヴァのパラッツォ・テ(テ宮殿)という離宮の中の一室、「巨人の間」に、ジュリオ・ロマーノとその弟子たちが手掛けた世にも奇矯な壁面装飾についてです。
3.ヴァーチャル・リアリティー:視覚以外の仕掛け
(復習です。)
壁と天井を一つの統一画面とし、
そこに迫力あるギガントマキアの場面が描かれていました。
天井には、下から見上げる観者から見れば
大きく渦巻く動態を感じさせるように、
大きさの異なる円がずれながら重なり合って描かれていました。
またその円の重なりは、
主人公のゼウスに視線が向かうようにも考えられていました。
これらは、視覚体験です。
実はこの部屋は、かつて、さらに別の仕掛けが加わり、他の感覚を刺激して、まるで16世紀版「VR(ヴァーチャル・リアリティー)体験」の遊び場のように設えられていました。
ここから先は、視覚以外の感覚を刺激する演出について話を進めます。
(1)暖炉
前述した通り、東壁には元々、暖炉がありました。
窓と窓の間の中央下部の、少し黒っぽくなっているところです。
(図16)
この暖炉は、1784-1785年の建築家パオロ・ポッツォによる修復作業時、煤煙が壁画を汚すということで撤去されました。
わたしたちは、注文主フェデリコ・ゴンザーガ2世の時代、実際にほんものの暖炉があり、ほんものの炎が揺らめいていたことを想像する必要があります。
この部屋を訪れたことのある同時代人のヴァザーリは、迫力ある混乱と破壊の描写を興奮気味に伝える中で、こう証言しています。
「暖炉に火を焚くと、巨人たちが燃え盛るように見えた」(注1)。
巨人たちがまるで実際に火に焼かれて苦悶するように見えていたとき、きっとヴァザーリの頬は、火の熱さを感じていたことでしょう。
ヴァザーリの鼻は、煙の煤けた臭いを嗅いでいたことでしょう。
ヴァザーリの耳は、パチパチという燃える音を聞いていたことでしょう。
当時、均一に照らし出す電灯の光ではなく、刻一刻と形を変えながら揺らめく炎にあぶりだされるようにして浮かび上がって見える壁画は、より一層秩序を失い、おどろおどろしく見えていたことでしょう。
実際に煙のこもる空間の中で見れば、観者は自分も火事に巻き込まれたかのような気持ちになったことでしょう。
暖炉は、ジュリオ・ロマーノの考案した演出法です。
言うなればこれも壁画装飾の一部でした。観者は、このような見せ方の巧みな工夫により、視覚だけでなく、触覚、嗅覚、聴覚まで刺激されながら、ギガントマキアの物語にどっぷりと入り込むよう仕向けられていたのです。
滅びゆく巨人族とともに神から攻撃を受けているかのような不安と恐怖を、様々な感覚を通じて臨場感たっぷりに味わえるように構想されていたのです。
(2)音響
過去のいくつものマントヴァ旅行記録には、この部屋での奇妙な音響効果が報告されています。
彼らによれば、部屋の隅で小声で何かを話すと、反対側の隅でその声がよく聞こえるそうです(注2)。
思いがけない場所で、思いがけない音が聞こえると、人はギョッとするでしょう。あるいは、音が想像よりも意外と大きく聞こえたとき、人はびっくりするでしょう。過去の人々も、こうした出来事を、この部屋での特筆すべき経験として記録に残しています。
最先端の音響技術が駆使された現代の映画館や劇場シアターにおいて、その音の演出に驚いた経験はないでしょうか。思いがけない方向、音量、音質で音が聞こえたとき、驚くことがありますが、そのような経験に似ています。
恐らくこの音響は、ドーム状の天井を持つことから生じる音の伝わり方に起因しています。
(3)床の小石
現在、床面は美しい円を描く渦巻き風のパターン模様で飾られています。
これは、前述の暖炉を撤去した18世紀の修復時に新しく取り付けられたものです。
(図17)
同心円なのに一見螺旋風にも見えて、まるで北岡先生作成の錯視作品「コロナ渦」のようです。(「30.螺旋(2)- i 」を参照。)
***
床面には、もともとは、丸く削った小石が敷き詰められていました。
想像してみます。
石が敷き詰められていたということは、足元がデコボコしていたということです。
当時の観者は、足裏に凸凹を感じながら、粗削りでバランスの取りにくい不安定な岩場を歩いている時のような、拠り所のなさや不安な心持ち、緊張感を呼び起こされたことでしょう。
まして周囲に見えるものはすべて、無数の石と岩の塊で潰され、殺されてゆく巨人族です。足裏に「石」を感じる時、自分もこの騒乱に巻き込まれている感覚が強まったに違いありません。
***
ヴァザーリは『列伝(ジュリオ・ロマーノ伝)』の中で、もう一点、この部屋の床について、重要な証言をしています。
「(舗床には小刀で丸く削った小石が敷きつめられたが)、壁面が垂直に立ち上がる所にはこれとそっくりの石が描かれたので、むき出しの角はなく、茫漠とした平面が広がっているように見える。」(注3)。
『列伝』第一版(1550年)のほうでは、「(石が敷き詰められ)、壁の下の方の床と接する所では本物の石が絵の石に中に消えて行く・・・」と書かれています(注4)。
つまり、
・壁が床と接する部分に本物の石が置かれていた
・それによって角が隠されていた
・壁の下あたりに描かれた絵の石と本物の石が区別なく連続して見えた
というのです。
天井と壁との角をなくして上方をドーム状にするため、壁の上の角は漆喰で埋められていましたから、床と壁の間の角をなくすと、部屋全体は、方向性としては「球体」を目指していたことになります。すると、床に立つ鑑賞者は、なす術なく、絵の中に物理的に丸ごと生け捕りにされるばかりの運命です。絵の中の世界に文字通り閉じ込められ、逃げ場はありません。
壁に描かれる石と実際の石が区別なく連続して見えるような工夫も、鑑賞者を絵の世界と一体化させるためのものです。リアルとバーチャルの区別をあいまいにすることが意図されています。
鑑賞者は、床のある現実の世界と、壁の絵の中の世界との区別を、床と壁の境界を失った以上、もはや明確に認識することは出来ません。いつの間にかずるずるとバーチャルの世界に入り込み、気付いた時にはもう神々と巨人たちの激しい戦闘の場に立ち尽くしているという状態になります。
***
現在、都会には、現代的技術を駆使して臨場感溢れるヴァーチャル・リアリティー体験を楽しむための遊び場がいくつもあるようですが、巨人の間は、それをしのぐVR体験の遊び場でした。
というのも、現代のようにゴーグルとヘッドホンをつけて楽しむ、つまり視覚と聴覚で楽しむばかりではなく、ジュリオ・ロマーノの演出は、匂い(煙)、触覚(足裏のアンバランス、炎の熱さ)まで用意していたからです。
ヴァザーリがこの部屋の装飾を「ジューリオ・ロマーノの立派な判断力とすばらしい技巧の成せる業」(注5)と称賛する時、その賞賛にはまさしくこの暖炉や小石の演出も含まれていました。同時代の人の目にも、非常に斬新で興味深く、特筆すべき演出法だったことが分かります。
4.まとめ
渦巻き風の円の重なりは、コレッジョの品格を保ったよく練られた手法でも、ジュリオ・ロマーノの大胆で粗削りで奇矯な手法でも、用いられていました。
ジュリオ・ロマーノは、キリスト教の教義を描くコレッジョの天井画から学んだことを、ここで世俗的な主題でやり直したとも言えます。
教会から別荘へ、公的注文から私的注文へ。
諸条件が変化したため、自由度が高まり、いっそう趣味に走ったような表現が可能となりました。視覚を刺激し、他の感覚も刺激する。ジュリオ・ロマーノはそれを奇抜なまでに推し進め、今でいう「VR体験の遊び場」的な部屋を作り出しました。
(図18)
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最後に、「L'ombelico del mondo」(ロンベリーコ・デル・モンド、「世界の臍」の意)という「Jovanotti」(ジョヴァノッティ)のミュージックビデオをご紹介します。
ジョヴァノッティは、1990年代に登場したアーティストで、イタリア音楽界でイタリア語ラップの祖とされる人物です。今では、イタリアのポップス音楽界の超大物です。
ジョヴァノッティはまだ若かりし頃、「ロンベリーコ・デル・モンド」という楽曲を大ヒットさせました。恐らくイタリア人なら大抵知っています。
このミュージックビデオは、この「巨人の間」で撮影されています。(一部、パラッツォ・テの別の部屋の映像も入っています。)
昔々、NHK教育テレビのイタリア語講座でも紹介されたビデオです。
youtube動画で自由に閲覧することが出来ます。
床に巨大な円形の太鼓が置かれて、天井の円環とまるで鏡写しのようです。この太鼓が「世界の臍」なのでしょうか。
逆さまになったり踊り狂ったり頭を振ったりしたときに感じる眩暈の感覚は、この部屋が呼び起こす感覚とよく似ています。
臍、太鼓、回転、逆さま。炎、点滅、眩暈。リズム、喧噪。
パラッツォ・テの巨人の間の奇天烈さをうまく生かした映像となっています。
***
最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。
(注1)ジョルジョ・ヴァザーリ、『続 ルネサンス画人伝』、平川祐弘・小谷年司ほか訳注、白水社、1995年、新装版2009年4月。「ジューリオ・ロマーノ伝」は348-374頁。うち364頁。
(注2)Gianna Suitner, Chiara Tellini Perina, Palazzo Te in Mantua, Electa, 1990, Milano, pp.98-110. esp. pp.107-110.
(注3)ジョルジョ・ヴァザーリ、『続 ルネサンス画人伝』、平川祐弘・小谷年司ほか訳注、白水社、1995年、新装版2009年4月。「ジューリオ・ロマーノ伝」は348-374頁。うち365頁。
(注4)堀 賀貴、資料紹介:ジョルジョ・ヴァザーリ『ルネサンス画家、彫刻家、建築家列伝』「ジュリオ・ロマーノ伝」、建築史学、14 巻 (1990)、112-126頁。126頁の注23より。
(注5)ジョルジョ・ヴァザーリ、『続 ルネサンス画人伝』、平川祐弘・小谷年司ほか訳注、白水社、1995年、新装版2009年4月。「ジューリオ・ロマーノ伝」は348-374頁。うち365頁。
その他
Giorgio Vasari, Le vite de' piu eccelenti pittori, scultori e architettori nelle redazione del 1550 e 1568, ed. P.Barocchi and R. Bettarini, Florence, vol. 5, 1984. 巨人の間への言及は pp. 69-73.
Paula Carabell, "Breaking the Frame: Transgression and Transformation in Giulio Romano's Sala dei Giganti", in Artibus et Historiae, Vol. 18, No. 36 (1997), pp. 87-100.
“Le Vite." 1550年初版全文 (イタリア語 website)