文化財保護と略奪と身売りと
写真出展: https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1765
はじめに: 光の山
去る先月8日に英国の女王エリザベス2世が崩御し、その後継としてチャールズ王太子が新国王チャールズ3世として即位したのは記憶に新しい。しかしそのトランジションの中で個人的に目を引いたニュースがある。英国王室が所有するコイヌール(コヒヌール; Koh-i-noor; インド・イラン諸語の一部で「光の山」を表すようだ)と呼ばれる世界最大級のダイヤモンドについて、かつて彼の国の植民地であったインドの一部国民が返還を求めているというのだ。何でも以下記事によると、女王の訃報の後で俄にインドのTwitterのトレンドにこの言葉が上がってきたとか。
コイヌールは宝石としては、最古の記録ではムガル朝が所有していたとされ、その後持ち主が転々と変わった後で19世紀中期に英国東インド会社が所有するものとなり、以降先王の母エリザベス(先の女王と同名)の冠に用いられて現在に至るとのこと。それが突然というわけではないものの(過去にも当地独立の際にインド政府から英国への返還要求はあった模様)、俄にインドでぶり返したように語られることで、何か私は既視感を覚えると同時に嫌な予感を抱きかねないのである。
エルギン・マーブルのデジャヴュ
既視感の正体、否、似たような話として、同じく英国の大英博物館に現在も安置されているエルギン・マーブル(Elgin marbles)の件がある。これは19世紀初期にオスマン帝国からの独立のために戦争を行っていたギリシアにて、英国人貴族のエルギン伯T・ブルースらが、観光地どころか今やギリシアのイメージそのものとして定着しているあのパルテノン神殿にあった石像を切り出して英国へ輸送したというものであり、ギリシア政府らによって20世紀中期から数年おきに思い出したように返還運動が起きている。
以下個人的な経験になるが、当国が財政危機真っ只中にあった2009年に私が実物を見たときには「仮に『祖国』へ返還されてもどこか別の国へ借金のカタに売られてしまうだろう。いや、過去はともあれ現在の英国以上に文化遺産に理解のない国や持ち主の手に渡ったらどうなることやら」と酷く悪趣味なことを考えたものだった。否、危機を乗り越えた(はずの)今でもギリシア政府がしっかりしていなければ、返還されてもそういった文化財に理解のない持ち主へ売り飛ばされるリスクがあることは容易に想像ついてしまう。
アフガンの宝物は何処へ
これと同時に、単に借金のカタに売られるだけではなく、その産出地や発見の地に引き渡すことで破壊のリスクに晒される文化財もある。例えば、アフガニスタン出土の古代の宝飾品などである。
1980年代以降の紛争や政情不安によって同国から流出した文化財の一部は日本に流れ着き、彼の地に深く関わりのあった画家・平山郁夫(1930-2009)らの尽力により国内で保管されていたが、2016年に同国へ返還された。
その際に上野の東京国立博物館で開かれた『黄金のアフガニスタン』展を私も見に行ったが、この目で再びこれら素晴しい文化財を見ることはもうないのだろうという惜しさ、寂しさ、悔しさ、そして僅かな怒りの混じった感情を持ちながら会場を後にしたのを覚えている。事実、近隣とは言えないが同じ「中東」とカテゴライズされるシリアにて、その前年にダーイシュ(通称「イスラム国」)によるパルミラ遺跡など文化財の破壊が堂々と行われていたことがあるし、何よりもアフガン現地でもあのタリバンによるバーミヤーンの仏像爆破の記憶がまだ根強く残っていたからだ。
あの「返還」されたアフガンの秘宝は、再びタリバンが政権を握った現在はもう現地にて見ることはできないと私も諦めがついている。が、それよりもより悪いことに再び掠奪されて流出したか、もしくは最悪のケースとしてそれら遺物が跡形もなく破壊されているということまで考えられてしまう。
おわりに: 文化財保護はその「産地」でできるのか?
先程の平山郁夫は自身の第二次世界大戦の経験(とりわけ広島市における1945年の原爆投下)や画材とした南・西アジア(いわゆる概念としての「シルクロード」)の政情不安や紛争などに巻き込まれた体験から「文化財赤十字」の構想を打ち立て、先のアフガンの秘宝を日本にて受け入れてきたとされる。しかし、戦乱や災害、経済危機など文化財が毀損されるリスクが高い状況下にある国や地域に対し、易々とそれら文化財を返還してよいものだろうか。
何も私はそれらの地域について「上下左右老若男女を問わず住民全員がその価値を理解していないから、文化財の保護や住民にその重要性の『啓蒙』をするだのといった努力をしても所詮は猫に小判に過ぎない」といった犬儒的な意見を言うわけではない。そういった地域でも、住民やそこにルーツを持つディアスポラなどのうち一部、特に高等教育を受けた上位層は自由主義者(いわゆるリベラル)やナショナリストやその他のいずれでも、そうした文化財や遺産を価値あるものとみなすことが往々にしてある(だからインドでもPCやスマホを持って回線を繋ぎTwitterまでアクセスできる階層は、コイヌールのことを殊更語りたがるのだ)。
しかし、それでも残りの大多数は価値を理解してはいないし、そうした文教方面よりも最新のガジェットだの技術だのより「生活に直結した」「実学」への投資を歓迎するものである(おそらく保管先の国々でもそういう兆候はあるのだろうが)。ゆえに、先程のエルギン・マーブルやアフガンの秘宝の「祖国」における経済危機や紛争を思うと、文化財や遺産を無理に「返還」した結果その価値が軽んじられてぞんざいに扱われるリスクは、それらが保管されてきた国々よりも遥かに高いと想像できよう。
おまけ: 日本も他人事ではない?
日本国内も以下の理由から決して他人事ではないと言えるだろう。
まず、地方だと大概の住民はそうした過去から脈々と受け継がれていく文化財や遺産よりも、最新のガジェットや未来志向なアイテムに心奪われることが多い。これは日本国内なら都市から地方へ、先でも少し触れたが世界規模なら先進国/「欧米」/「西洋」/「西側」から後進国/「東洋」/「東側」への流行の伝播によく見られる。それで、この裏返しは散々Twitterなどでよく聞く「文化資本」豊かな都会と、それらを度外視した都会の別の顔-流行やスタンダードを追うばかりなショッピングモールやチェーン店が土着の経済を蚕食し「ファスト風土化」が20年近く行われている地方の格差である。
なおこの地方のファスト風土化から遡ること40-50年前の高度経済成長時代であっても、津軽三味線奏者・二代目高橋竹山氏が、なぜ出身地の東京から遥々青森へ向かい初代高橋竹山に弟子入りしたかもここに理由があるようでならない。
cf.『農民』記事データベース 20020826-552-01
この地方の伝統軽視、文化財軽視の風潮から、土着の文化財などが毀損や破壊(不適切な修復や保管によるものも含む)、最悪の場合は消滅の危機に晒されるリスクも考えられよう。さらに地方自治が国の政治の縮小版であるとすると、昨今の日本学術会議の人事をめぐる問題などにみる人文学軽視の風潮も加味すれば、国全体で文化財に対する保護の意識が薄れ、国宝や重要文化財の多くが身売りされたり何らかのきっかけで掠奪されたりし、コイヌールやエルギン・マーブル、それにアフガンの秘宝のように流出してもおかしくなかろう。それらが流れ流れて海外のどこかへ辿り着いたとしても、それが良いか悪いかはそのときの日本の国勢を見て判断するとしようか。