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アーカンソーってアメリカなんですけど知ってますか?

私が住んだのは、アーカンソー州という、行く直前まで私も知らなかったような場所だった。出発の1週間半前に行く場所が決まり、グーグルマップで調べた時の衝撃は忘れられない。え、私ここに行くの?ドラマみたいな高校生活が送りたかったのに・・・。そのくらい、何も無かった。干し草と、何に使っているかも分からないタンク。養鶏場としか思えない白い小屋。綺麗な平屋がまばらにある。そのくらい、田舎に行くのか・・・と私は本当にがっかりした。LAを死ぬほど希望していた私は、ショッピングモールが何も無さそうなところに行くのをためらった。出発は10日後。9月に出発だとばかり思っていた私は夏休み前に友達に挨拶もしていない。すぐ返事を出さなければで、悩む時間もなかった。行くという選択肢しかなかった。私の親友はネブラスカに決まっている。ほかの友達はアーカンソーに行くと決まっている。大丈夫だと言い聞かせ、返事をした。少ししてから新しい家族の情報がきた。70歳の名字の違う夫婦だった。楽しみ半分、不安が半分というとこだった。でも、ドイツ人の妹が出来るという。これが国際交流か~等考えていて、1人っ子の自分には初めての経験なのに不安は無かった。本当はもっと不安になっておくべきだったと思うのだけど、私の性格上、人とのアイスブレイクは得意だから本当に不安はなかった。

私は部活をやっていたのだけれど、私のフライトは合宿が終わった日の4日後だった。今思い返せばよくやるよと思うが、あの時は何事にも意欲がみなぎっていた。技術はないのに気持ちだけはいつも1番だったと思う。あの時は評価されることはなかったけど、今では自分で誇りに思えるし、私の事を気にかけてくれる友人はわかってくれていた。でもその時は皆が敵だったからいつも心が一人で何も大事なことを知らなかったんだと思う。それでも合宿が終わった後にメンバーが頑張れよと色紙のようなものを用意してくれた。先輩がクッションをくれた。友達が当時はやっていた写真がたくさん出てくる箱を作ってくれた。結構愛されてたのかもしれない。留学でどっか行くって言ってから結構皆優しかった気がする。いつも嫌味ばっか言ってくるメンバーでさえも、お前殺されるから行くなよとか、危ないところで殺されるなよとか言ってきたので、結構皆に心配されていた。 今もメンバーとは仲がいいから、会うたびに思いだしてちょっとほほえましくなる。

まあそんなこんなで4日後が来た。
練習試合が終わったメンバーが空港に駆けつけてくれたのだけれど、私のフライトの30分前で会えなかった。ピンクの練習着を着ていたのだけれど、何となく、デッキにいるのが分かった・・・気がする。でも間に合っていたら多分泣いちゃっていたからよかったのかもしれない。実際母と抱き合いながら泣いたのだけれど、横をふと向いたら父が1番泣いてて笑ってしまった。シンプルに面白かった。父との忘れられない思い出ベスト3には入ると思う。
フライト中は正直あまり覚えていない。でもハーゲンダッツが出てびっくりしたのは覚えている。あと、頑張るぜ!みたいな日記を書いたのも覚えてる。日記が続かないのが私の悪いところなんだけど、空港にあった無印用品でノートを買っていった。うわあ懐かしい。乗り継ぎする時にカバンが壊れて、このシリーズのカバン、いつも旅行の時に壊れるなって思った記憶がある。3個目とかだったし、何なら2年たった今も同じシリーズを使っている。行きのフライトは特にドラマチックなことは無かったなあ・・・。これから何があってもくじけないぞ!人生変えるぞ!英語ペラペラになるぞ!と意気込んでいた・・・気がする。小4から使っていた黄色い英語のノートと、小6で買った旅の用語集みたいなのをリュックに詰めて。何の役にもたたなかったけど、黄色の英語のノートは私の宝物だった。今はどこにあるかわからないけれど、いつかまた探し出せたら今度こそは大切にしたいと思う。


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