必要な「さようなら」。
自分にとってネガティヴなことでも相手にとってそうでもなく、そんな中でのやりとりが何となく「当たり前」になってしまい、気づいたら自分だけがいつも我慢してた・・・
相手のことを信用していたら、好きだったら「それは嫌だ」と言えたはずなのに?と思わないでもないけれど相手のことを「怖い」と思ってしまったらそれは「伝えることができない自分の不快感」になる。
「結局私も相手を信じていなかったのかな」、
そんなことを何度も考えて、どういう風に伝えたらいいのか、言葉をどう選ぼうかと考えることは本当によくある。
でも最近わかったことは
「聞く耳を持たない人には何も伝わらない」
ということだった。
悲しかった。それではもう、私はあなたと話できない、と思わざるを得ない。
「そんなの耐えられない!何がなんでも!」
と頑張る自分もいた。
考えて考えて、我慢して我慢して、タイミングを見計らって。
でも無理、今日じゃない、今じゃない、じゃあいつ・・・?
そんなタイミングを見計らっているうちに自分のなかの「我慢ゲージ」がたまっていってしまって、最後爆発してしまう。
それは悲しい「さよなら」に繋がってしまう。
「今からでも間に合うならフォローさせてほしい」と頼まれたこともある。
でももう無理だった。なぜか、もう私は疲れ切っていた。
あなたのこと、嫌いになりたくない。
でも、それ以上に自分のことを嫌いになりたくない。
ここで、あなたのことを好きなままの私で、さようならがしたい。
まだいまなら、自分を大事にできるから、さようならしたい。
自然とそう思ってしまった。
しばらくたって、自分の気持ちに整理がついた時に相手にそれを伝えるチャンスがあって、相手はやっとその時「聞く耳」を持ってくれていたけれど、それでも相手も「もう何もかもが遅いんだな」と気づいているようだった。
私の気持ちも、我慢ゲージを突破したからと言って爆発状態はおさまっており、淡々と自分の気持ちをそこに並べてみせるしかない。
相手はそれを見て、いいや、私たちはそれを眺めて、もうどうすることもできない。
私たちにはもう、互いに離れる距離と時間が必要なんだ。
悲しいけれど、自分たちを辛くないところに置くことが今は大事だと感じた。
人との縁が切れることを怖がってはいない。
だけど、そこに起こる悲しさにいつも苦しんでいるのも事実だ。
「さようなら」は悲しい言葉じゃない、いつかにつながるといい。
そう信じたい気持ちがないわけではない、それでも。
それでも今は、君と「さようなら」なんだと
今は伝えたいことを、伝えられることが大事だと感じた。
追記:
あとで自分が受けていたことは言葉の暴力、DVだったことが判明しました。
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