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映画『#BlackBoxDiaries』批判について

伊藤詩織監督『Black Box Diaries』本篇を見た。伊藤さんの元代理人たちの2度の会見、それに合わせて出された伊藤さん側からの各種声明もぜんぶ読んだ。東京新聞が映画での扱い方を批判した集会も、以前からよく知っている。

その立場からの私の感想は、「映画には判断ミス、コミュニケーション不足による問題のあるシーンが確かにいくつも含まれているが、ジャーナリスト倫理に違反するとか人権侵害という強い批判・糾弾は、行きすぎている」である。

その理由を書いてみたい。


指摘されている問題

伊藤さんの映画をめぐる元代理人からの批判は、去年10月の記者会見で公になった。2月の会見も基本的に同内容だ。例えば1回目の会見について書いた雑誌記事のまとめを借りると、会見では次のような問題点が指摘されていた。

  • 情報提供した捜査員の身元が秘匿されていない。

  • 名前を出し証言することに承諾を得られなかったタクシー運転手の映像が使われている。

  • 弁護士との会話が無断で録音され使用されている。

  • 被害にあったホテルの防犯カメラ映像が、「裁判以外では使用しない」と誓約書を出して提供してもらったのに映画で使われている。

はっきりさせておく必要があるのは、弁護士らによる2回目の会見が終わった時点では、捜査員・タクシー運転手・ホテル側が「きいてないぞ」と当事者として抗議しているわけではない、ということだろう。弁護士の電話音声の録音をのぞいて、すべて元代理人たちがそう考えているというだけだ。(そして彼らの人権侵害が想像できるから映像使用はおかしい、と言う人は単に事実関係をきちんと確認していない)

しかしすでに元代理人側の主張を受け入れた批判・非難が行われているので、ここでもその主張に沿って考えてみることにする。

そしてさらにこれらに加えて、2月の会見では以下の点が追加された。

  • 東京新聞が、「Black Box Diaries」のなかには性被害を巡る集会に参加した女性記者の映像も許可なく使われていることを報じた。

以下、順番に見てみよう。


(1)情報源秘匿 ─ 捜査員たち

たしかに映画では、捜査員だという男性の声が繰りかえし使用される。問題になっているのは、映画で「捜査員A」と名付けられた捜査員だ。彼が一種の内部通報者で、捜査状況に関する伊藤さんの主要な情報源になっているらしい。

捜査員Aは、(1)捜査の現状を知りうる立場にあり、(2)検事に状況を報告に行く立場にあり、(3)さらに例の「羽田空港に容疑者が到着したときを狙って逮捕を準備していたが、突然上層部からストップがかかった」その現場にいた4人の捜査員のうちの1人だった、と映画で明かされる。

映画に彼の顔・映像は出てこず、すべて声だけなのだが、会話の録音を彼が認めるとは思えないから、おそらく隠し撮りなのだろう(ただし声は加工処理されているとのこと)。

これだけ聞けば、捜査員Aはこの映画によって身元を特定されてしまう可能性が高いように思える。

…のだが、上記の(1)〜(3)は、すべて以前出版された伊藤さんの著書『Black Box』にすでに書かれていることばかりなのだ。

この本は2017年に刊行されて、2022年には文庫版も出ている。

この本では、その(1)〜(3)に加えて、さらにこの捜査員が勤務していた都内の警察署(伊藤さんが被害届けを出した)の名前まで書かれている。

要するに、取材源秘匿義務違反を言うならばこの著書の段階でそれはすでに起きている。しかし刊行当時にはそうした批判はなく、元代理人たちも(本の刊行時にはすでに伊藤さんと関わっている)批判していなかった。捜査員が職を追われることもなかった。羽田空港での逮捕取りやめは国会答弁にまで持ちだされているくらいで、広く報道されていた。

著書の刊行と一連の報道によって完全な秘匿の必要性はすでに有名無実化しており、そのこともこれまでとくに批判されていないのなら、映画製作側が映画にこの情報を出しても問題ないだろうと判断したのは自然じゃないだろうか。

繰り返すが捜査員の顔は一度も出てこないし、声も加工されているという。少なくとも著書刊行時点で身元特定できなかったものが今回の映画で何か重要な手がかりを残してしまったのかどうか、映画からは分からない

映画の音声をきくかぎり彼は伊藤さんに同情的で、著書が刊行されると知らされたときも、それはあなたの仕事なら当然のことだと理解を示している。

「隠し撮り」については他の論点とかかわるので最後にまとめて書くことにする。ちなみに捜査員Aについては、映画の最後で現在も警察に勤務しているとクレジットが表示される。

(2)タクシー運転手の映像

映画の冒頭ですぐ出てくるシーンだ。伊藤さんがタクシーの助手席に座り、車を運転する初老の男性運転手が、伊藤さんの質問に答えている。やりとりは割ににこやかだ。「私は何度駅で降ろしてくださいと言ったか覚えていらっしゃいますか。帰らせてくださいと。」「2〜3回だと思う。」…と、運転手は事件が起きた夜の様子を振り返っている。

さらに運転手は続ける。あなたは駅で降りると言ったけど男性の方にホテルへ行ってくれと言われて、男性はあなたに、何もしないから・話をするだけだからみたいなことを言っていたように思う、ホテルに着いてもあなたが降りようとしないのを男性が抱きかかえて…と。映画の製作側がこのシーンの使用にこだわったのは、彼の一連の証言が事件当日の伊藤さんの合意の有無をうかがわせる証拠になりうるからだろう。

カメラは助手席に座る伊藤さんの、ちょうど膝元あたりに置かれていて彼の顔を見上げる角度になっている。そのうえ運転手は車を運転しており当然ずっと前方を向いているので、ほとんど横顔しか写っていない。しかしときおり伊藤さんの方に視線を向けるので、そのとき彼の表情がはっきり見えている

で、冒頭に引いた記事ではこれも隠し撮りしているように見えると書いているが、そうだろうか。

私には、これははっきり彼に断って、彼に見えるような形でカメラを回しているように見える。スマートフォンでも、この距離で取って相手に気づかれないのはちょっと無理だし、伊藤さんが使っているビデオカメラのサイズなら、完全に不可能だろう。

元代理人たちは、この運転手が裁判では名前を出すことも証人として出廷することも断ったため書面による証言になった、ことをもってこのシーンも無許可映像だと判断しているようだけど、もちろん裁判で証人を引き受けるかどうかと取材に応じるかどうかはまったく別の話である。

この映像をみるかぎり、「人権侵害」という強い言葉で非難するべき話だとは私には思えない。運転手に撮影の許諾をもとめてカメラを回したのなら、元代理人たちの主張はそもそも成り立たない相手はカメラ取材に応じているんだから。

しかし、この運転手とはその後、連絡が取れなくなっているということなので、明示的に許諾を受けているのかどうかはよく分からない。そういう映像をとくに加工もせずに映画の中に使っているのは、たしかに製作側のミスである。

英『ガーディアン』紙の作品レビュー。5段階の「4」という評価。

(3)「性被害めぐる集会」

これは東京新聞が今年1月14日付の記事で、「伊藤詩織さん監督の映画、『性被害』語る女性の映像を許諾なく使用」という見出しで報じたもの。伊藤さん側からの抗議を受けて、東京新聞はこの見出しを変更し謝罪した。

何があったかというと、こういうことである。

もともと女性の在京メディア関係者を中心とするゆるやかなネットワークがあり、毎回ゲストを呼んで勉強会・懇親会を開く活動をつづけていた(私も以前から知っている集まりで、ついでに言えばこの記事を書いた記者もこれに加わっている)。映画に出てくるのは、著書『Black Box』の刊行後に伊藤さんがそこへ呼ばれたときの様子である。私はこのとき参加していないし、記事を書いた記者がその場にいたかどうかも知らない。

映画では、会の参加者がマイクをもって次々に意見を述べたり自分の経験を話したりする。カメラは終始会議室の後ろからのみ撮っていて、参加者たちは後ろ姿か横顔の一部分しか写っていない。伊藤さんは壇上に立って、それを聞いている。

その参加者の一人に、自分も伊藤さんと同じような経験をした、と明かす女性がいるのですね。

はじめ東京新聞は、この女性も含めて一切の許諾を取らずに映像を使用していると読めるように書いた。性被害を受けた女性がエクスクルーシブな場面で明かした話を許諾を取らずに映画に使えば、これは明確に人権侵害といってよい。

しかし映画の製作側は、この性被害を告白している女性には許諾を取っていたのだという。さらに女性の声や顔は加工処理されているのだと。それは事実だったので、東京新聞は訂正を出して謝罪することになった。そして見出しを「『性被害』語る女性の映像を許諾なく使用」から、「性被害めぐる集会の映像を一部許諾なく使用」に変更した。

つまり不満を漏らしているのは、ここに映り込んでいる他の参加者なのだ。明示的に許諾を出していないのに、なぜ自分が映っているのかと言っている参加者がいるのだろう。

だけどこの場面は、明らかにカメラを回すことを参加者に知らせたうえで撮られている。集会のオーガナイザーは必ず「今日はカメラが入ります」と全員に告知しているはずなのだ。しかも参加者の多くはメディア研究者やジャーナリストで、集会にカメラが入ることの意味も十二分に理解したうえで参加し発言したはずだろう。そのうえ、事件の展開にいきどおりを感じ、伊藤さんに共感するからこそ参加したであろう集会の紹介に、なぜあとになって苦情を言っているのか、正直よく理解できない。ここが「再修正」されたとしても、日本以外では、見る人の多くが「なぜ一般的な感想を述べているだけの参加者が顔を隠す必要があるのか?」と不思議がるにちがいない。

それに、東京新聞の「性被害めぐる集会」という表現だと参加者たちが自らの性被害を語っているかのように見えるが、それを語っているのは(映画では)一人だけで、この集会はあくまで「伊藤さんの性被害をきく集会」である。この点でも東京新聞の記事は不正確だ。

このシーンは〈伊藤さんがゲストとして呼ばれた勉強会で断ってカメラを回した〉という以上のものではない。参加者からのクレームには対処すべきだが、人権侵害として激しく非難されるようなものとは言えない。単なる製作側の不注意である。

集会の類は撮影者にとっては鬼門で、きちんと同意を得たつもりでもトラブル化する可能性はつねに残る。わずかに画面の隅に映り込んでいる人が文句を言ってくるとか、撮影OKしたけど使われ方が気に食わないと抗議を受けるとか。そういうことはTVでも映画でも日常的に起きている。

そういう潜在的なリスクを警戒して慎重に処理できなかったのは、やはり製作側の判断エラーである。

しかし製作側は、問題の指摘を受けてこのシーンを再修正すると発表した。あっさり修正を呑んだのは、要するに映画にとって本質的な問題ではないからだ。

(4)弁護士との会話の無断録音

映画では、終盤になってこの録音が使われている。事件のあったホテルのドアマンが当時の様子を法廷で証言してくれることが新たに分かり、裁判期日を延期したいと弁護士に連絡するシーンである。

弁護士は、諸事情を勘案すると延期は得策ではない、このまま進めたほうがよいと応じる。その電話音声が、電話をかける伊藤さんの映像にかぶせられている。これにつづくホテルのドアマンと伊藤さんとの会話(これも電話音声)は、映画の中でもっとも心を動かされるシーンのひとつである。

さてこの点については、おそらく製作側が申し開きできることはない。依頼人が内緒で自分の声を録音していて、しかもそれが映画に使われていれば、弁護士が怒って当然である。

それを重々強調した上で言えば、このシーンは元代理人たちが言うように伊藤さんの活動を妨害した、抑圧した、ようには全然見えない依頼人と弁護士の、よくある意見のくいちがいである。

そのうえ、元代理人たちは、映画の中でこのシーンが出てくるまで何度も映像に映っている。どれもはっきり顔が写っていて、明らかにカメラで撮っていることを明示した撮影である。つまり自分たちの映像が映画なりTV番組なりに使われること自体は、かれらも了解していた。

製作側は、だから短い電話音声を使うことにも問題はない、と多分考えたのだろう。もちろんここは当然、相手に断らねばならなかった。しかし、これも重大な人権侵害かというと、ちょっと違う気がする

いずれにしても製作側はこの点については謝罪して、修正をすると声明で発表している。

伊藤さんと元代理人のトラブルを報じる英『タイムズ』記事。

ここまで述べた(1)〜(4)については、はっきり言って製作側の経験不足・認識不足によるミスである。大手のTV局や新聞社・通信社なら、経験を積んだデスクやプロデューサーが作り手から一歩引いた第三者の視点で内容と表現をこまかくチェックするし、集会シーンのような地雷になりやすい場面についても経験を踏まえて処理方法をアドバイスする。それがなぜか今回の映画では素通りされてしまった。

それらは誤った判断ではあるし修正できるならせねばらないが、人権侵害とかジャーナリスト倫理に違反するとかいう強い非難・糾弾は、事実を踏まえていない。2月21日の時点で、製作側は問題の箇所については非を認めて謝罪し、修正すると言っているが、それは要するにあっさり修正できる問題だからだ。

しかし最後の点はちょっと性質が違う。


(5)ホテルの監視カメラ映像

この点については、製作側の声明でも公益性を主張している(つまり使い続けると言っている)。

映画に即していえば、ホテルの名前は登場する人々が何度も口に出しているし、ホテルの看板もいちどはっきり映し出される。だからホテル側の匿名性を担保する(どこのホテルか分からないようにする)という配慮は映画の中では実質的に機能していない

しかし事件が起きたのはどこのホテルかなんて、この件に真剣な関心をもってきた人は全員知っている(そうですよね?)。つまりこの映画が「ホテルのプライバシーを守っていない」と批判するのは的外れだ。

そして事件当日を知るホテルのドアマンは、名前を明かして証言台に立つことになるのだが、その後も職を続けている。ドアマンの男性は映画の中の決定的な場面で伊藤さんを力強く支える役割をになう。自分の不利益など伊藤さんが受けた苦しみに比べればどうということはない、と伊藤さんに向かって言い切る(立派な人だと思う)。監視カメラ映像の利用許可をとった弁護士からすれば顔を潰されたと感じるのは無理もないが、対ホテルで問題が生じるようには正直見えない。映画の製作側にも当然そういう判断があったのだと思う。

そのうえ、これは少なくとも今のところは、ホテル側が「話が違うじゃないですか、こんなことになるなら今後はもう提供しませんよ」と抗議している…という話ではぜんぜんない。あくまで元代理人が抗議しているだけだ。映像を提供するかしないかはホテル側の判断であって、元代理人側の判断ではない。

しかし裁判以外には使いませんという「誓約書」を確かに交わして映像提供を受けたのなら、それを映画に使うのが、ある種の信義則を破っているのは確かである。だから問題は「約束は破りました、ごめんなさい。でも使います」という立場をどう考えるかである。

(誓約書は誓約書であって、「契約書」ではないので、元代理人がそれに署名していようといまいと、法律上の契約違反だの賠償請求だのという話ではないあくまで信義の問題である)


映画の〈公益性〉

相手が許諾していない映像を使うことをどう考えるか、隠し撮りという一連の手法をどう考えるかは、もともと作り手の考え方や国情に大きく依存するが、あくまで個別具体的なケースについて正しい判断なのかどうかが問われる。取材相手の人権を尊重する・許諾を得ることが大事なのも、報道・表現の公益性が大事なのも、どちらも正論なのは当たりまえだからだ。

相手の許諾どころかはっきり使うなと抗議されていてすら映像を使っているドキュメンタリー映画は、実はめずらしくない。『ボウリング・フォー・コロンバインに始まるマイケル・ムーアのいくつかもそうだし、最近やはりアカデミー賞ドキュメンタリー部門の候補になった愛と殺戮のすべてにいたってはメトロポリタン美術館での無許可デモのシーンから始まっている。日本にもゆきゆきて、神軍という世界の映画史に残る作例がある。

『愛と殺戮のすべて』トレーラー。

そんなのはぜんぶ山師の仕事だ、決まりはきちんと守るべきだし無許可デモに映り込んだ警備員の気持ちも考えろ、といった立場は当然ありうる。が、それを上回って映像を使用する公共的価値があるのなら、それを報じる立場を法律上きわめて強く保護するのが少なくともこれまでの米国・欧州の多くの国で共通する前提だ。それは映画だけでなく報道の現場でも同じである。

「公共的価値があるのなら」がポイントで、公共的価値がないものを私益のために使えば非難(場合によっては法的に処罰)されるのはどこの国でも変わらない。

だからやはり個別・具体的なケースに即して、この映画なら「ホテルの監視カメラ映像」を使うことでどんな公益性があるのか、使うことで生じるダメージと公益性がどんなバランス関係にあるのか、を考える必要があるのだ。元代理人たちが主張するように、誓約を破っているからただちに撤回せねばならない、とは言えない。

私が映画をみた感想を言えば、このホテル監視カメラの映像はかなり決定的な証拠のひとつである。男は、タクシーから降りることを拒むようにも見える伊藤さんを引きずり出して、抱え込んでロビーを歩いてゆく。ドアマンは驚いて二人を見送る。伊藤さんの足元はよろめいているが、男の足どりはしっかりして、周囲を見まわしたりせずまっすぐ部屋へ向かっている。

この映像は、事件翌日の朝にホテルを出てゆく伊藤さんの映像だけが流出した結果、伊藤さんに対しておこなわれた無数の中傷に対する重要な反論であり、上で述べたような「監視カメラの公益性」についての議論の手がかりにもなりうるだろう。

これがホテル側との誓約をやぶっている、今後同様の事態に監視カメラを提供してもらうことが難しくなる…という非難については、さあどうなんだろうか。それは、そもそも事件の被害者が気にすべきことなのか

  • もともと被害届けが受理されて刑事事件になっていれば、監視カメラは強制的に提出されて公共的な価値を帯びていただろう。刑事事件にならなかったことを問題視する立場からは、この映像の扱いについてホテルが決定権をもっているという考え自体がおかしい

  • 性加害事件の監視カメラ映像が映画に出るということ自体がきわめて例外的な事態なのに、これが今後の別の事件一般に影響するとなぜ言えるのか。仮に影響するとしても、性暴力の証拠映像を「被害者側に提供しない」という判断自体を批判すべきではないのか。

  • 「人権侵害を防ぐ」という観点からは、この映像の公開を拒否するもっとも強い理由をもっているのは、ホテルや元代理人ではなく伊藤さんだけだろう。

私はそう思っているし、日本国外で映画を見た記者からはこの映像使用について、それが「誓約書」に反していると知ってもなお、問題視する声は、ほとんど聞かれない。

この映像の価値について補足すれば、一部の記事やブログが仄めかしているように、ホテルの監視カメラの映像がなければこの映画全体の価値が揺らぎかねない、これまでの受賞歴も基盤が崩れてしまう、云々という感想はまったくナンセンスだ。映画そのものをきちんと正確に見ることができていればそんな感想は決して出てこない、と明確に言っておきたい。映画のもっとも感動的で重要な部分は、この映像だけではない。


ニューヨーク・タイムズ紙の映画評。強く推奨する "Critic's Pick" には選ばれなかった。

映画の評価、国外での受け止め

さて最後に、映画の世界的な受容状況についても書いてみたい。

実績のあるドキュメンタリー映画の製作者が「訴訟もセルフ・パフォーマンス」、伊藤さんは状況を利用してアカデミー賞候補にまでのし上がった「モンスター」といった言葉をSNSに投げつけていて、たいへん驚いた。これは分析などというものでは全然なく、ただの中傷である。(※2月27日の追記:その後、このSNS投稿は謝罪のうえ削除された)

が、この投稿の背景には「どうせ上手くやってるんだろう」という判断があるように見える。実際に映画の評価はどうなのだろうか。

まず映画の興行成績は、アメリカで去年10月に劇場公開され、2025年2月初旬の時点で、世界全体で3万ドル強(約450万円)である。アメリカ国内市場でいえば、公開初週のランキングは46位だった。アメリカでの一般公開は年内でおおむね終了して、年明けからはAmazon Prime や Pramount+ といったプラットフォームで配信されている。

受賞レースでは、2月初旬の時点で34賞にノミネート、うち21の賞を受賞している。

ドキュメンタリー作品としては比較的健闘した方ではあるが、興行収入3万ドルでは、製作費すら到底カバーできていないんじゃないだろうか。21個の受賞も大半はマイナーな映画祭での受賞にすぎず、サンダンス映画祭そのほか重要な映画賞はノミネートにとどまっている。ちなみに今年のアカデミー賞ドキュメンタリー部門で最有力とみなされている『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』は、同時期に有力映画賞も含め62個の受賞を果たしており、興行収入は48万ドル(約7100万円)に達している。


レビューは、おおむね高評価といってよいと思うが、重要なところで留保がつけられているものが多い

たとえば辛口で知られる映画批評サイト『IndieWire』は、きわめて重要な勇気ある映画だが、とくに謎の車を追いかけるシーン(警察関係者が乗っているとする車に伊藤さんが直撃取材を試みる)などは、彼女が果敢だということ以外には意味が分からないとはっきり指摘している

『ニューヨーク・タイムズ』の著名レビュアーは、この作品は感動的で力強いものの、主人公(伊藤さん)の視点にしぼりすぎて事件の概要がほとんど分からず、感情的ではあっても知的に理解できることは少ない、と書いている。この新聞で Critic's Pick(批評家の推薦)に選ばれるかどうかは結構その後の評価に左右するのだが、これには選ばれなかった。

映画を見た私の感想もだいたいこれと同じだ。パワフルで感動的な作品ではあるけれども、ひとつの映画作品として独創性が優れていると評価することには躊躇を感じる。アカデミー賞の候補にあがったのは立派だが、もし『ノー・アザー・ランド』を押し退けて受賞するとしたら、それは作品の水準というよりも、「ヨルダン川西岸の入植活動を批判する映画」などを忌避するアメリカの政治状況に左右されたということだろうと思う。

だけども、この映画は「作品」として分析・批評されてしまうべきものなのかという思いも拭いきれない。この映画製作自体がおそらく伊藤さんにとって再生プロセスの一部になっていて、その点でこの映画はきわめてパーソナルなものだと思う。作品としての完成度はともかくも日本の現代史に残る貴重な軌跡の記録であることには疑いがないし、こうした映画に救われる人は、日本にもきっといるはずなのだ。


まとめ

さて書いておきたいことは以上である。私の考えを繰り返すと、まず何よりも、

  • この映画には多くの問題があるが、それが〈人権侵害・ジャーナリスト倫理違反〉と強い言葉で非難されるほどまでとはいえない。

につきる。

この映画と映画について巻き起こった批判が、ドキュメンタリー映画とジャーナリズムの倫理について多くの教訓と検討課題を提供しているのは確かである。しかしドキュメンタリー制作一般・ジャーナリズム一般についてこの映画とは直接関係のない自らの信念や経験を語ってしまっている人々は、作り手の未熟さを批判(あるいは嘲笑)することで伊藤さん側を不要に追い詰めながら、問題の理解と解決にあまり貢献していないことを自覚していただきたい。それが私の考えの二つめ、

  • この問題は、あくまで個別のシーンの映画の中での使われかた、撮影と交渉の経緯に即して具体的に考える必要がある。

の理由である。はげしく非難する多くの人も、実際に映画を見て、著作の刊行にさかのぼる一連の経緯を確認すれば「本当にそれほど非難されるべきことだったのかな」と思い至るのでは、と私は思っている。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

(この項 終わり)


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