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【ヨーガ哲学】「他人を変えたい」欲を手放したら平安を保てる
〇〇をしたら幸せになるのに
良くなるために〇〇すべきだ
将来のために〇〇であるべき
人として〇〇しなければ
成功のために〇〇を心がけて
他人に対して「こうしたらいいのに」と思うことありませんか?
特に親しい人や家族など大事にしたい関係である相手が
明らかに間違っている!と思うときに助言をしたくなりますよね
これはもちろん一つの愛の形ですが
その影には「コントロール欲」も隠れています
「〇〇すれば〇〇になる」
という自分が持っている概念に当てはめることは
時に自分と相手両方にとって良からぬ結果になる事もある
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ヨーガ哲学にこんな話があります
ある雨の日のこと
一匹の猿が全身ずぶぬれで木の枝に座っていた
同じ木の向かいには実に良くできた雀の巣があった
哀れな猿に雀は言った
「私はこの小さなくちばしで雨の日のために家を作っておいたんだ
君はどうして頭を使わないの?
雨をしのげるような小屋をちょっとどこかに作ったら?」
それを聞いた猿はものすごい形相で
「自分は巣の中にいて気持ちがいいからってからかっているのか?
お説教しようってのか?どうなるか思い知らせてやる!」
そう言うと猿はその巣をズタズタに引き裂いてしまった
哀れな雀は猿と同じようにずぶぬれになってしまった
未熟であったり、利己的である人は確かにいます
正義感の強い人ほど、何とかしてあげたいと考えますよね
ヨーガ行者は「昨日の私もそうではなかったか?」と問います
未熟だった自分を知っているからこそ、正してあげたい
自分がそれで間違いを犯したからこそ、気づかせてあげたい
正せば物事がうまくいくとわかっているから、教えてあげたい
こんな風に思うかもしれません
しかし上記の寓話のように
意見をすることでそれは「侮辱」と受け取られ
向こうにとってはこちらが「誇っている」と見られる
そんなつもりは無くとも「優劣」「比較」は起こってしまう
無意識のレベルでそれはお互いが感じ取ってしまう
そんな状態で他人を変えることはできないのです
「彼ら自身の経験によって学ばなければならない
忠告するとあなた自身が平安を失ってしまうだけだ」
そうヨーガ行者は説いています
人には学ぶべきタイミングがあり
それは他人がコントロールできるものではない
それは「今」その時ではないだけで
いつか必要なタイミングが訪れるから
だから他人にしてあげられることは
ただありのままを尊重すること
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一方自分にとって
目の前に「コントロールしたい」と思う人や状況が現れた時は
もうそこは自分の居場所ではないのかもしれません
安心できる場所
同じ想いを持つ人
志を一つに調和できる環境
自分の使命に合った仕事
そんな居心地のいい人生に導かれるためのサインかも
コントロールすることなく
「正しい」に執着することなく
ただ平安を保って流れに委ねて
自分の居場所に流れていくこと
これが幸福な人生を歩むコツのようです