548.【ペア活】野村佳代さん個展 Layers of this Moment -今を重ねて-(2024.11.3)
文章だと、「行間」とか「余白」という言葉で表されるレイヤーを、絵画作品ではなんと呼ぶのだろう。塗り重ね、塗り込められた色や、マチエールと共に在るもの。
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「子離れのための通過儀礼」といった、悠長な境地ではなく、うっかり通り過ぎてしまった小さな心に、出逢いなおしていく旅だとわかり、靴をはきかえ、背筋を伸ばす。
(本文より)
◆子離れのための通過儀礼
◆GULIGULI cafe
◆GULIGULI gallery
◆それは“記念”的な
◆ガラポンが運んできたもの
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◆子離れのための通過儀礼
娘のNと、池田市のGULIGULI galleryで開催された、野村佳代さんの個展「Layers of this Moment -今を重ねて-」を訪れた。Nは大学4回生になり、来年からは社会人。母親と出かけてくれる時間も残り少ないと思うと寂しくて、じたばたしている。
父の介護で、実家に単身赴任することになったとき、Nは中学3年生だったので、Nの受験も高校生活も大学生活も、節目でしか関われず、なんということのない日常のなんということのない瞬間をこぼしてきたことは、私の痛みと負い目だ。8年間のNとの時間はとり戻せないけれど、父の入院で、日常の介護から離れた今、小さい娘ではなく、22歳になったNと出かけている。小さなころは、Nの喜ぶ場所に。今は、私が行きたい場所に。
いろんな「素敵」があることを共有したい。場所や、食べ物や、アート。目をまんまるにして、驚く顔が観たいし、共鳴したい。人に出逢ってほしい。体験してほしい。Nの何かが目覚めるきっかけを、できるだけたくさん。
佳代さんと、佳代さんの作品は、Nに体験してほしいことの一つ。
子離れのための通過儀礼をしている気がする。切実に。
Nのほうは、「おかあさんと行くと、交通費と食事代がいらないので、ラッキー」というくらいの気持ちだと思う。
◆GULIGULI cafe
GULIGULI さんは、池田市にあり、佳代さんの初めての個展が開催された場所だ。そのときにも訪れているのに、駅からの道の記憶は、あいまい。Nは、アプリを起動して、先に立ってさくさく歩く。もはや、私のお母さん。
(頼もしい!)
屋久島をイメージして作られたという、緑の森に抱かれるGULIGULIさんのたたずまい。小径の向こうに、ギャラリーとカフェが併設されている。11時からのランチを予約してあり、食べ終わってからギャラリーに行くことになっている。
素敵な場所に、Nをつれていくのは、わくわくする。カフェの内部は、迷路のようで、案内された奥の席は、全面ガラス張りの窓から、緑のお庭が一望できて、心の中で何度も歓声をあげる。天井も壁もあるけれど、庭と一続きのテラス席のような空間で、とても癒される。
苔に、木々からこぼれおちる光が躍って、いつまで観ていても、飽きることがない。
お肉のランチと、お魚のランチに、デザートセットをつけたものをオーダーして、楽しみに待つ。
二人とも、ごはんが食べたくて、そろって「黒米ごはん」にしたあとで、
「あ! 別々のにして半分こすればよかった!」
「ほんまや――」
「パンじゃないと、お皿のソースがすくわれへんかった!」
「残念――」
「分けたらいいねんから、こんどから、両方頼もう」
スープ。サラダ。前菜。運ばれてくるたび、大歓声と写真撮影。
こんなに美しい前菜に出逢えるなんて、娘の前で鼻高々だ。お料理は、とてもゆっくり運ばれてくる。こんなに心地いい場所にいられて、話ができて、おなかが満ちてきて、心とからだがほどけていく時間を、プレゼントしてもらっている幸せを、木漏れ日が揺れる庭を見ながら感じている。
運ばれてきたメインのプレートの美しさとボリュームにびっくり。
デザートの盛り付けも、素敵すぎて、食べるのがもったいない。
娘と一緒でありがたいのは、健やかな食欲だ。嬉しそうに、おいしそうに、どんどん食べてくれるので、(多いかも?)と思える量でも、ノープロブレムでオーダーできて、嬉しい。
◆GULIGULI gallery
いよいよ、佳代さんの個展会場へ。
ギャラリーのエントランスから展示室までは、細い通路になっていて、その壁にも、作品が数点、飾られている。タイトルは表示されていない。
観る人にゆだねられているのだと思う。
入口の前には、来年のカレンダーの原画が12枚、勢ぞろいしている。紙も印刷も上質で、その年が終わっても、心をあたためてくれる扉だ。カレンダーを手にするたびに、扉が灯る。
2025年.佳代さんのカレンダーをプレゼントしたくなる人との出逢いがあることを予感して、まだあてはないけれど、2セット購入している。
私が、なぜ、佳代さんの描く作品が好きなのか、魅かれているのか、言葉ではうまく説明できない。Nがどう感じるかがわからないまま誘ったけれど、観じてくれているのが伝わってきて、よかった。
いくつか並べられている作品で、好きな作品が同じだったり、作品から感じることの話ができたり。
今回の個展のイベントの目玉の " piano & paint / LIVE Performance "という、ピアノの音の中で即興ドローイングされたライブセッションの大作が窓際に立てかけてある。その前に立ち、描き終わってから十数時間の鼓動に心をすます。
佳代さんのライブセッションを体験したいと思いつつ、今回は、夜の開催だったので見送った。夜道でも、2人なら心強いので、Nと一緒に参加したらよかった。
そのほかのイベントとして、佳代さんの在廊日のオープン前の50分ほどの時間に、対話を通して立ち昇ってくるものを描いてくださる"Dialogue Drawing "という予約制のアートセッションや、お守りとなるような名刺サイズの作品を対面しながら、即興で描いてくださる"Omamori Drawing " というアートセッションのためのテーブルと、その上に置かれた画材は、一つの作品のようだ。
作品は展示販売されていて、購入することができる。
「プレゼントしてあげようか?」とN。
◆それは“記念”的な
母の日。誕生日。いつも、「何がほしい?」と訊いてくれるのだけど、もともと買い物好きではなく、仕事と介護でゆとりもなく、ウィンドウショッピングはしないので、そのときどきのNのお小遣いで買える程度のものでどんなものがあるのか、思い浮かべることもできず……ということが重なっていて、保留にしたまま一度ももらったことがなく、N的には、プレゼント予算の「積み立て」ができているらしい。
(ほんとーーー!?)
ということで、小さなキャンパスの作品をプレゼントしてもらうことに。
近づいてみたり、離れてみたり、どの作品も素敵で、さんざん迷って、ようやく3つくらいにしぼり、最後の2つのどちらにするかで悩み、ようやく決まって、佳代さんに伝えたところ、すでに売約済……。
作品の下に、目立たないように、銀色の丸いシールがつけられていたのだけど、控えめすぎて、目に入っていなかった。
(あんなに悩んだのに……)
ということで、仕切り直し。最後の2つにしぼったのだから、迷うことなく次点作品に決まるはずなのに、不思議なもので、「それは違う」という体験をする。もう「新しい目」になっているのだ。さっきまでの自分とは別の自分が、作品を求めている。
次の選択肢は全方位にひろがっていて、さっきは目に入っていなかった作品が、ぐんと前に出てきて気になりはじめる。ぜんぜん決められない。私がひとりでギャラリーに来ていたら、選んだ作品が売約済だった時点で、作品を選びなおすことはしなかったかもしれない。佳代さんの作品を購入する機会は、今後もあるし、決めない選択をしたと思うのだけど、Nと一緒に来て、Nがプレゼントしてくれる作品を、どうしても選んで手元に残したいと思った。
それにしても、時間がかかりすぎ!
「ごめーん。めっちゃ、迷ってて。すぐに決められないっていうことは、もう選ばなくていいんじゃないの? っていう話やねんけど、今日、一緒に来たから、特別やから、どうしても選びたいねん」
「うん、わかる。“記念”的な……でしょ?」
(そうそう! そうなの! なんでわかるの? お母さんは、作品を観るたび、Nと来たこと、思い出したいの。老後の楽しみに!)
まさに、「記念」的なものを、私は求めていて、それをわかってくれるN。
(どこに、どんなふうに飾るのか、ということもあるなあ~)と思っていると、横から、「どこに飾るかも考えて」などと、どストライクに助言してくる。
「近づいて観るほうがいいのと、遠くから観るほうがいいのと、あるよね」
「うん」
というわけで、近づいたり、離れたり。ようやく、作品から浮かび上がってくるイメージがいくつもの層を成し、物語を奏で始めた作品に決定。
最初に選んだ2枚の作品は、どちらも、内側の世界におりて探求するような感じがするもので、最終的に決定した作品は、外側に船出していく扉のような感じがするもの。
私は、旅がしたいのだ、と思う。作品は、その扉だ。
自分では、いつまでも内に深くこもっていたいけど、「ここじゃないよ」と、前を向かせてくれた気がする。一瞬で、プロセスが切り替わったのがおもしろい。。
会計をしに、ショップに行くと、屋久島のスプレーやジンジャーシロップが販売されていて、目がキラキラ。Nがジンジャーエールが好きなので、家で作って一緒に飲もうと思って購入。
最後に、佳代さんと記念撮影をしていただく。
ギャラリーのとっておきの場所に展示されている「Pathway to Another World -混沌の向こう岸にある静寂-」という作品とともに。
文章だと、「行間」とか「余白」という言葉で表されるレイヤーを、絵画作品ではなんと呼ぶのだろう。塗り重ね、塗り込められた色や、マチエールと共に在るもの。
どんな作品にも、それ はある。
◆ガラポンが運んできた
帰路で、梅田の地下街のイベントブースで、「ひょうご北摂魅力いっぱいフェア」という、大阪の北摂の5つの市の観光案内と名産品の販売をしていて、終了時間が近いためか、割引セールの真っ最中。そこに見つけたものは、「宝塚すみれクッキー」と「宝塚すみれクッキーサレ」。
宝塚歌劇の世界観そのものだと感じる、美しい缶にぎっしりつめられた、美しいお花のアイシングや、色とりどりのクッキーを、以前にいただいたことがあり、缶を観ているだけでうっとりするのだけど、中身もやさしい色のお花のクッキーがぎっしりとつまっていて、超ラブリー。
いただいて、こんなに豊かな気持ちになるものがあるのだと、感銘を受けた。
そのクッキーの、別のデザインの缶が売られていて、中のクッキーも違う。しかも3000円が2000円に!
(ぜったい買う)
娘の前だけど、買ってしまう。すると、2000円以上の購入で、イベントのトートバックをもらえて、福引の抽選もさせてもらえることに。
「やる?」と、Nに訊ねると、「うん」というので、まかせる。
まあ、参加賞だろうと軽く構えていたら、転がり出たのは、青玉。一瞬息を呑む間があり、鳴りやまない鐘の音と、大拍手! 目の前にいるガラポンを担当する人だけじゃなく、周囲のブースにいるイベント会場中のスタッフの人全員からの「おめでとうございます!」の嵐。たちまち、Nは渦中の人だ。いったい、何のお祝? と思うのだけど、その場にいたお客様からも、笑顔で祝福され、心から拍手される渦の中心にいるって、照れくさいとか恥ずかしいとかを飛び越えて、こんなにワクワクして嬉しくなるという体験に、びっくりした。
(さて、何をもらえるのだろう?)
「あまいおみやげ賞」の賞品は、清酒発祥の伊丹市の、酒樽を上から見た形の、その名も「蔵元」という、大きなおまんじゅう。
「宝塚すみれクッキーサレ」を買ったときにもらった、イベントのトートバックにすっぽり入って、いたれりつくせり。
「ガラポンで初めて当たった!」と、Nはとっても嬉しそう。
「よかったねー。すごいねー」と、声をかけたら、しんみりと「兄ちゃんがガラポンで当たったとき、私もやりたかった」などと、いったいいつの話を……というような告白が始まり、数年前のお正月に、近所のショッピングモールで、息子が三等の北海道の有名なお菓子の詰め合わせを当てたときのことを言っているのだと、思い当たる。1回分しかなく、成人式を控えていた兄のTに、軽い気持ちでガラポンをさせたのだのだと思う。
(そのあと、何かあっただろうか?)
「お父さんとお母さんが、私にもさせてくれるために、買い物に行ってレシート集めてくれたけど、戻ってきたときは、もう抽選が終わっていてできなかった……」
(えぇーーーっ そうだった?)
そんなに悲しいことがあるのかというくらい、暗い声で言うので、驚いて記憶の底から情景を引っ張りだす。たしかレシートの金額でガラポンができるシステムだったので、「あと少し足せば1回できるから、買いに行こう!」と、夫と適当な商品を買いに行ったのだけど、間に合わなかったのだ。
それにしても、あのときガラポンができなかったことが、今でも昨日のことのように、うらめしく悲しく語れるくらい、Nの傷を残していたとは……。
(ぜんぜん、気付いていなかった)
私の気持ちに、母が気づいていないと思うことは、いくつもあったけれど、私もまた、娘の気持ちによりそえていなかったことを知り、愕然とする。
きっと、ほかにもいろいろあるのだろうけど、はからずも、そのうちの一つが解決できて、ほんとうに、よかった。
青玉が転がりでたときの、鳴り響く鐘と、おめでとうの連呼と、会場中からのスタンディングオベーションが、あんなに心地よかったのは、Nの心が塗り替わった瞬間だったからだ。
(ありがとう! 佳代さん! 個展をひらいてくれて!)
(ありがとう! 「ひょうご北摂魅力いっぱいフェア」!)
(ありがとう! ガラポン!)
(ずっと気づかなくてごめん! N!)
「子離れのための通過儀礼」といった、悠長な境地ではなく、うっかり通り過ぎてしまった小さな心に、出逢いなおしていく旅だとわかり、靴をはきかえ、背筋を伸ばす。
至らぬ母ですが。
浜田えみな
◆個展に向けた佳代さんの言葉
Layers of this Moment
-今を重ねて-
私が絵を描く理由。
それは、言葉にならない想いを形にするため。
瞬時に移り変わる日常を、永遠の中に閉じ込めるため。
一度過ぎ去ったら戻らないあの時間。
もう二度と会えないあの人...。
その時々で大切にしたい気持ちや想い、
記憶に留めておきたい日常や景色を
紙面に取り組んでいくということ。
「今」にすべてがつまっている。
その感覚を思い出すために
私は筆をとっているのかもしれない。
そしてそれを忘れないために
いくつもの「今」を絵としてこの世に残している。
願わくば、絵をご覧になるあなたが
「今」に意識を置くひと時となりますように。
今という時間を重ねて。
2024.11.2
野村 佳代