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430.【水と旅 ~水の産声~】

(滴が落ちる)
(その前と後では、世界が、もう戻れないほど大きく変わる瞬間)
 
「水の産声」という文字を目にした瞬間、不思議なことに、禊のような、祓いのような力で、抱えているものや、とらわれているものが消え、別の次元にいざなわれている。
岩窟のどこかで起きていることを、身体に感じている。
 
(本文より)
 
*****

 
7月28日は、早朝より、大橋和さんが主宰するヒツキアメツチのファームでの活動と学びを終えたみなさんと、カフェでブランチをとり(私はカフェから合流)、サロンに移動して、秋に予定している、岩手の旅のお話会の準備のあと、車座になって、ファームの土が育んだハーブを浮かべたあたたかいお茶と、ご用意してくださった地元のお菓子をいただき、お話を拝聴する。


思い起こすと、テーマは、「水」と「旅」
 
夜は、同じく大橋和さんの「Academia(アカデミア)」というオンラインクラスに出席したのだけど、このクラスでも、大切なキーになっていた「水」
 
発端は、ファームから移動したカフェで、和さんから、『水の守人 京都 鴨川の源流 めぐる生命の物語』という番組のお話をしてくださったこと。
鴨川の源流を守ってくださっているのは、志明院というお寺の歴代のご住職たち。
 
以前、ミニリトリートで、その場所に案内していただいたことがあり、そのときの印象的な記憶がある。
 
(岩窟の前で、息を凝らし、耳をすませて、一心に聴いた、ひとしずくが落ちる音)
(その、かすかで、圧倒的な、響き)

 
その瞬間のことは、光景もありありと浮かび、からだはぜんぶ覚えているのに、言語化できず、みなさんにお伝えすることができなかったので、翌日になり、当時のブログを読み返した。
 
訪れたのは、2016年8月。
事前に志明院について調べたときのワードが、並べられている。
 
雲ケ畑。岩屋山。修験道。霊石。霊場。
滝。龍。水神。洞窟。水源。精霊。
役行者。弘法大師。菅原道真。不動明王。
歌舞伎。鳴神。
司馬遼太郎。もののけ。

 
全く覚えていなかった。
調べた知識は、ぜんぶ忘れてしまうことを思い知る。
でも、
 
(体験は忘れない)
(志明院=鴨川の源流=何もない岩窟=ひとしずくの音)

 
しかし、ブログを読み進むうちに、
 
【ふだんは、岩窟内に湧水が見えるそうだが、私が訪れたときは、長らく雨が降っていないせいか、水はみえなかった】
 
という一文があり、私が体験したこと、私が聴いた音は、別の日では起こらず、そのときだけのものだとわかった。
 
(一期一会)
 
訪れる季節。訪れる時間。気温。天候。岩窟内の環境。
同じ場所に、同じ人が訪れたとしても、同じ体験はない。
その人だけの、見えない力に導かれている。

 
和さんが、「体験した人から直接聴く」ことを大切にされているかたのお話をされていたことが、(まだ、言語化できないものとともに)振動となって響いている。
 
(旅のお話のシェア会をしていただきたいと、なぜ、感じたのか)
 
そして、ブログを最後まで読んだとき、なぜ、導かれたのかを受け取る。


★★★該当部分を転載します★★★
 
(承前)
 
「飛竜の滝」と呼ぶそうだ。
鴨川源の一つである岩屋川の流れを集めた滝は、滝垢離(たきごり)の行場になっているという。弘法大師が入山の行を行った際に、山の守護神が飛竜となって滝つぼに入ったことから、水を司る神、飛竜権現の霊をお祀りしているそうだ。
祠を囲むように、天を突くような三本の木立がそびえている様子に、圧倒される。
 
上へと伸びていくまっすぐな幹と、大地へ向かってまっすぐに落ちていく水の線が、天と地のつながりを感じさせるからだろうか。
 
さらに進むと、弘法大師が護摩の行をしたと伝えられ、歌舞伎十八番の鳴神上人伝説の残る護摩洞窟がある。
黄色い紙垂が張り巡らされた洞窟は、たしかに、龍が閉じ込められていたという気配が漂っている。
護摩洞窟の手前にある薬師如来様の祠は、「脳薬師如来」と手書きの札が添えられていた。
 
そして、断崖の中ほどの、岩間より霊水が湧きだす岩窟が、鴨川の水源。
神降窟
と呼ばれているそうだ。
舞台が造られているので、現在では、たやすくその前に立ち、祈ることができるが、昔は、修業を積んだ者でも、近づくことのできない神聖な場であったにちがいない。
 
ふだんは、岩窟内に湧水が見えるそうだが、私が訪れたときは、長らく雨が降っていないせいか、水はみえなかった。
ただ、目をとじて祈っていると、ぴとん…… という音がする。そらみみかと思い、祈りを続けていると、また、同じような音がする。
 
(なんの音だろう?)
 
水が滴っている音のように聞こえるのだが、あまりにも不定期で、かすかな気配なので、本当に聞こえているのかも疑わしく、どこかに滴が落ちている場所があるのか、目を凝らしても、岩窟の奥は暗くて何も見えなかった。
音だけが、滴の証だ。
何度か、その音を耳で拾うことができて、
 
(ああ、滴が落ちているのだ)
 
と確信できた。
 
滴が落ちる。
 
ただ、それだけの音なのに、どうして、こんなにも心をつかまれるのだろう。
もっともっと、聴きたくてたまらないと、耳をこらして求めてしまうのだろう。
聞き分けたいと、願うのだろう。
 
滴は、落下するとき、何を手放したのだろう。
滴は、水に落ちたとき、何を手放すのだろう。

 
そんなことを考えていると、
 
ぴとん、
 
という音は、その前と後では、世界が、もう戻れないほど大きく変わる瞬間なのだとわかる。
 
そして、気づいた。
 
産声なんだ)
 
川となりゆく水の産声。
 
滴は、いつ、自分が川だと知るのだろう。
 
***★転載終了★***
 
(滴が落ちる)
(その前と後では、世界が、もう戻れないほど大きく変わる瞬間)

 
「水の産声」という文字を目にした瞬間、不思議なことに、禊のような、祓いのような力で、抱えているものや、とらわれているものが消え、別の次元にいざなわれている。
岩窟のどこかで起きていることを、身体に感じている。
 
(「一滴」が落ちてくる)
(受容する)

 
浜田えみな
 

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