405.当尾の里 古寺と石仏の道(前編) ~岩船寺~ 2023.5.13
撞木が鐘に当たったとたん、その振動が手から身体に伝わり、あれこれ考えていることが一気に吹き飛ぶような音の波に包まれる。頭上から。正面から。横から。下から。
鼓動のようなリズムに、全身が包み込まれる。
まるで鐘楼内に見えない壁があり、それに反響するように、音の波が寄せてはかえし、そのゆらぎに細胞がふるえる。
(浄化)
(音浴)
最後のゆらぎが消えてなくなるまで、この場にいたい、という気持ちになる。
(合掌)
(本文より)
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京都府南部で奈良県に隣接する木津川市の東南部に、当尾(とうの)と呼ばれる里がある。石仏の宝庫として有名なこの地の「古寺と石仏巡りのハイキング」に、スピプロ10期の仲間と参加した。
プランを立ててくれたのは、この地で生まれ育った池田祐実枝ちゃんだ。
私は、土門拳という写真家が好きで、土門氏が撮影した『古寺巡礼』という写真集や、幾冊もあるエッセイを読み込んでいた時期があり、土門氏が訪れた古寺や仏像には、特に思い入れがある。
今回、春季特別公開で、御開帳される浄瑠璃寺の秘仏 吉祥天女像は、土門氏が「仏像のうちでは、恐らく日本一の美女」と称えた、仏像というよりは雛人形のような美しさで、今にもその指が動き、ふっくらとした唇から、ご神託が聴こえてきそうなたたずまいは、何度でも拝観したい。
ただ、木津川に点在する古寺は、私が住む地から、距離的には近いけれど、車がないと不便なため、浄瑠璃寺には一度しかお詣りしたことがなく、今回、地元の祐実英ちゃんの企画で、仲間と行くことができて、嬉しい。
コミュニティバスは1時間に1本。みんなで行くなら、待ち時間もおしゃべりタイムになる。
JR加茂駅のバスターミナルに集まったのは、8人。
無限大のマーク! インフィニティ!
集まっている仲間は、フェイスブックの投稿や、zoomの画面で、イキイキと輝いている姿を(一方的に)目にしているので、実は会うのは1年半ぶりとか、実は初めてとかだとしても、毎日、顔を合わせている同僚や、クラスメイトのように、手を振って近づいていけたり、バスで隣になった瞬間から、ずっとしゃべりっぱなしでいられることの不思議。
(大人の遠足!)
バスは、加茂町の田舎道を進み、岩船寺に到着。
バス停には観光案内の大きな看板があり、岩船寺から浄瑠璃寺までの、石仏を巡るハイキングルートが確認できる。
道端には、無人の販売所があり、近隣の農家で取れた野菜や、切り干し大根などの乾物、手作りの梅干しなどが吊るされている。
有人の売店では、手作り感満載の「よもぎ餅」や、すぐに食べられるように油で揚げてある「かきもち」が並べられていて、(帰りに絶対に買う!)と決める。
参道から山門までは石畳が続いていて、空から降り注ぐような青紅葉が美しい。
昼からは雨模様だという予報のため、当初予定していた野辺でのお弁当タイムを急遽とりやめたのだけど、岩船寺に到着したとたん、雲間から、光が差してきて、まるで「ウェルカム」のサインをいただいているようで、うれしくなる。
終日、天気がもつことを願いながら山門をくぐると、本堂までは砂利の路で、足元には、可憐な草花が咲き、見たこともないほど背の高いあじさいが両脇から伸びていて、まるでアーチをくぐっているかのようだ。
青紅葉とあじさいの向こうには、三重塔の鮮やかな丹塗りがみえている。
(咲いたら、どんなに見事だろう)
祐実英ちゃんが先頭に立って、みんなを本堂へいざなってくれる。
本堂の扉をくぐって、中に入ったとたん、目に飛び込んでくる、ご本尊 阿弥陀如来坐像の大きさと、距離の近さに息を呑む。
3メートル近い阿弥陀如来さまが、手をのばせば触れる距離に坐していらっしゃり、四隅をお守りくださっている持国天、増長天、広目天、多聞天の存在感と調和が、素晴らしい。
パンフレットによると鎌倉時代の作とのこと。鎌倉時代の彫像の特徴は、運慶・快慶の作(と言われる)金剛力士像に代表される、筋骨隆々の勇壮かつ躍動感がほとばしる力強さだ。
(萌える)
ご住職様?が声をかけてくださり、ご法話を聴かせていただけるとのことで、ありがたくも、ご本尊様の前に、みんなで一列に座らせていただく。
流れるようにしみいるご法話の声に、外で鳴く、うぐいすや、名を知らない鳥の鳴き声が重なり、非日常的な世界にいざなわれていく。
3メートル近い阿弥陀如来さまが、欅の一木彫だと教えていただき、信じられない思いだ。しかも、十世紀中期に作られたものだと伺い、千年以上前に現存したものが、目の前にあることに感銘を受ける。
特徴ある光背の形は、平安時代に生まれた二重円光と呼ばれるものだと教えていただく。
四天王像は鎌倉時代の作なので、当初からこの形で配置されていたのではなく、尊像の目に映る景色はそれぞれ違うが、今、令和の時代に、このように坐して、物言わずとも歴史を語りかけてくれるのは、どのような世にあっても、教えを守り伝えるために尽くした人たちの想いがあるからだ。
(本当にすごい)
回廊を進んで後ろにまわると、ふだんは厨子の中に納められている秘仏が、特別公開の期間、御開帳されている。
普賢菩薩騎象像、如意輪観音菩薩、弁財天、羅刹天……。
普賢菩薩騎象像は、辰年・巳年生れの守護本尊であると教えていただき、巳年生まれなので、特に心をこめて、手をあわせる。
美しい白い像に乗る貴賓あるお姿。
小さくて暗いため、よく見えないが、象には六本の牙があるらしい。
秘仏は、どれも、小さいものだが、手をのばせば届く近さで拝観することができる。
十二神将像は、素朴な彫りのためか、あたたかみがあり、ユーモラスで、どれも動きが違っていて、表情も豊かなので、魅入ってしまう。
名残惜しい気持ちで外に出ると、青紅葉と紫陽花に抱かれている三重塔を目指す。
初層内部は、ゴールデンウィークの一週間のみ御開帳されるそうで、この日は拝観することができなかった。パンフレットの画像を見ると、彩色がとても美しく、この中に、白い象に乗る普賢菩薩様が安置されていた光景に思いを馳せる。
緑の中に鐘楼が見える。鐘があれば、撞きたくなる。岩船寺の鐘は、拝観者が自由に撞くことができるとわかり、思わず、「撞きたい!」と、手を挙げる。
ところが、先に撞いてくださった、光源寺のご住職である米田和古さんの鐘があまりに素晴らしく、境内の緑や、鳥たちの声や、空気にしみわたっていく調和が完璧で、響き渡る余韻に聴き惚れて動けなくなり、この調和した氣を、私の(恐らく雑念だらけの)鐘の音で壊したくないと感じ、撞かなくてもいいという気持ちになった。
すると、みんなが口々に、撞きたいと思ったのだから、撞いたほうがいいと背中を押してくれたので、鐘の前に立つ。
張り紙があり、「静かに撞くこと」や、「余韻が終わってから撞くこと」などが、記されていた。
岩船寺の鐘は、撞木が吊るされている場所が高く、鐘との距離がやや遠いため、後ろに引いて勢いをつけないと鐘まで届かず、思っていたタイミングではなく、次のタイミングで鐘を撞くことになり、焦りつつ、とまどいつつも、撞木が鐘に当たったとたん、その振動が手から身体に伝わり、あれこれ考えていることが一気に吹き飛ぶような音の波に包まれる。頭上から。正面から。横から。下から。
鼓動のようなリズムに、全身が包み込まれる。
まるで鐘楼内に見えない壁があり、それに反響するように、音の波が寄せてはかえし、そのゆらぎに細胞がふるえる。
(浄化)
(音浴)
最後のゆらぎが消えてなくなるまで、この場にいたい、という気持ちになる。
(合掌)
山の木々、鳥の声。風。
鐘の音を、こんなに味わうのは初めてだ。
今も、何度でも、その体感を思い出せる。
岩船寺の鐘、おすすめです!
その後も、何人かの仲間が鐘を撞き、
(みんなちがって、みんないい!)
鐘の音と、鐘を撞いた後のおだやかな表情に、みとれる。癒される。
おすすめです!
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岩船寺からは、石仏をめぐりながら浄瑠璃寺へ向かい、門前のおそばやさんで昼食の予定だったけれど、すでに12時をまわっていて、おなかがぺこぺこ。
食堂らしきものは見当たらず、お腹のたしになりそうなものといえば、来るときにみかけた、よもぎ餅とかきもちくらい。
それで小腹をしのぎ、とにかく、浄瑠璃寺まで歩こうということに。
みんなで、お店の前まで戻ってくると、来るときにはなかった、ちらしずしのパックが!
尋ねてみると、持ち帰りもできるし、食べることもできると言われ、半信半疑で見回すと、軒先に商品が並べられているだけだと思ったお店は、奥にテーブルと長椅子があり、軽食のメニューも貼りだされている。
(ぜんぜん、目に入っていなかった!)
行くときは、いちもくさんに岩船寺を目指していて、お昼を食べる予定ではなかったからだと思う。
つくづく、見たいものしか見えていなかったことがわかる。
どこでもドアのように出現した食事スペースは、ぐるりと緑にかこまれ、とても気持ちがいい。
8人全員が一つのテーブルに座れたことがうれしくて!
テーブルはたくさんあいているのに、ぎゅうぎゅうにくっついて座っているのも可笑しくて!
うきうき、わくわく。
全員、ちらしずし定食をお願いする。
小さなお店だと思っていたのに、「どこにこんなに大量のちらしずしが!」と思うほど、次々にお膳が運ばれてくる。
しいたけとにんじんに、刻んだしょうががアクセントになり、刻みのりがたっぷりかかった、素朴なちらしずし。
具に、そうめんが入っていて、にゅうめんのような味わいが嬉しいお味噌汁。
やわらかく煮しめた、旬のたけのこ。
この地で育ち、土から抜かれ、太陽を浴び、風に吹かれ、干されて、地元の人の手によって漬けられた、たくあん。
その土地の食べ物を食べることは、いのちのエネルギーを身体に取り入れることだ。
おいしい空気といっしょに、みんなで食べる食事は、一口ごとに、心とからだにしみわたる。
おなかがいっぱいになり、いよいよ、石仏の道を浄瑠璃寺へ。
つづきます! (後編)~石仏めぐりと浄瑠璃寺編~
浜田えみな