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違いのラベリングからの脱却

我が家は母子家庭だ。

両親が離婚したのは、18歳の時。
家庭自体は、小学校高学年くらいから壊れていた。

私と父との関係は良くない。
父は、いわゆる ”The・昭和人間”。
男尊女卑、人種差別的思考を持っていた。

彼は、家族を
自分の地位を見せるためのアクセサリー
のように扱っていた。

父と父方の家族は、
外で働く母を、習い事を子供にさせる母のことを
激しく嫌っていた。

父は、中学時代、家族に
『子供を大学に行かせるお金がない』と言いつつ、
個人の趣味に月に5万以上使っていた。

そんな環境下で徐々に、
私は父のことを嫌っていいきました。

高校時代は、家にいるのが嫌だった。
父と会うことが嫌だった。
だから、バイトや、習い事に明け暮れた。

両親の離婚後は、
父とは1度も会っていない。
会いたくもない。

それをこれまで隠してきた。
家族のこと、話したらみんなに
冷たい人間と思われたり、かわいそうな人と
思われたりするのではないかと思っていたからだ。

しかし、マレーシアに来て変わった。
日本にいるときよりもみんなフラットに
『私(僕)の家、離婚してるんだよね』
『父親と仲が悪いんだよね』
と言う。

今まで私が隠してきたことをフラットにいう。

みんな、いろいろな家庭があるよね
という感覚で話を聞く。

それは、みんな ”違うということを知っている”。
民族、宗教などが自分の持っている
文化的バックグラウンドが大きく異なる。

だからこそ、自然とそのように考えられる
のだと私は、思う。

しかし、日本はどうだろう?
”単一民族国家”として考えてしまってはいないだろうか?

一人ひとり、抱えてるもの、育った環境違うのに、
学校教育などで、”同じ”であるように見せていないだろうか。

多様性が叫ばれる現代で、
LGBTQ+や、人種といったラベルのつけられた”違い”を
見つめるのではなく、

個人が抱える、
名前のない、分類できない違いに
目を向けることが、
今後の社会で重要になってくると私は思う。

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