季節がめぐっていくということ
この時期は毎年仕事柄、大井川鐵道に乗車をし様々なアーティストの方をご案内することが増えてきます。
大井川鐵道は、私が高校時代の通学に使っていた列車。乗るといつもいろいろなことを思い出します。
駅の売店のあずきアイスがカッチカチだったこと。
スプリングがゴワゴワする座席。ものすごく揺れる車内。足元のヒーターが熱すぎて下手に座ると火傷しそうになること。
知っていた先輩が高校卒業後、大井川鐵道に就職して、駅員さんになってなんだかまぶしかったこと。
帰宅時、私は始発駅から乗るのですが、次の駅から地元の知り合いがどっと乗ってくる瞬間が苦手で、みんなが楽しそうにわいわいしているのを横目にシートに半分隠れながら本を読んでいたこと。
アーティストをご案内しながら、一人脳内の思い出散歩に出てしまって戻ってこれなくなったりしています。
高校生のころは、自分というものが定まっていなくて、自分が何をしたいのか、どうなりたいのか、どこへ行きたいのか、全くわからない日々でした。打ち込めるものも特になかった私はただただ「ここではないどこかへ」と強く思っていたことを記憶しています。
自分という人間なんてどこにも存在していないんじゃないか、と思っていたあの頃ですが、大人になって鉄道に乗ってみると、そこここに高校生の自分が見えてくるような気がします。
4人席のシートで、ぼんやり外ばかり見ていた自分。
シートに埋まるように本を読むふりをしていた自分。
駅についてローファーをだらだらひきずりながら一番前の運転席の扉から降りる自分。
「確かにいた」となんでだか強く思えるのは、年を取ることでやっと自分を肯定できるようになったからかな。
自分自身が定まっていないから、人付き合いもへたくそで、寂しがり屋なくせに人に疲れる矛盾の日々。
ひょんなことからしっくり来なくなり、距離ができてしまうと向き合えなくなりそのまま疎遠になってしまったり。
その頃から、「私」という人間の近くにいてくれる人はいろいろに変化し、離れた人、ずっと近くにいてくれる人、さまざま。
今はもう、面と向かって話すことはないのかもしれないけれど、何となくあの頃のまま、なんだか照れくさいような、ライバルのような、同志のような、そんな気持ちを勝手に持っている人もいたりして。不思議なものです。
人と人との関係というものは、嫌いになる、とか仲が悪くなる、ということではなくて、季節がめぐっただけなのだと最近思います。
お互いの、それぞれの、今いる季節が違うというだけのこと。
だからきっと、疎遠(住んでいる距離ではなく気持ちの)になった人のこともたまに懐かしく思い出したりするのは、冬の間に春や夏を恋しく思うことと同じなのかもしれないし、いつまでも人との間にしこりを残すのではなく、季節が流れていくように、そういうしこりも流していけばよいのだな、と思ったりします。
何はともあれ、私にとっての大井川鐵道はしょっぱくて苦くて甘い場所。ダサダサだった自分を愛おしく笑えるようになったのも年を取るということ、きっと。
年をとり、自分自身の顔が増えていきます。娘、姉、孫、という昔からの顔に加えて母、妻、事務局長、(何かの)委員、など。でも、元々の「ワタシ」の顔というのは、鉄道で通学していたあの頃から多分何も変わっていない。
ダサくて、暗くて、いつももやもやしていて寂しがり屋で。そんな元々の顔を愛おしく思えてはじめて、人は自分を生きるスタートラインにたてるのかもしれません。そう考えるとワタシはまだまだよちよち歩きだな。でも、多分それだから、不完全だから、良いのだな。