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無差別曲線

無差別曲線について、もう少し突っ込んで見てみたい。これまで何度か触れてきたが、ここで改めてWikipediaからその定義をひいておきたい。

無差別曲線の定義

無差別曲線(むさべつきょくせん、英: indifference curve)は、消費者の選好関係の幾何学的表現で、同等に好ましい、または、同じ効用が得られる消費計画を結んだ曲線。等効用線ともいう。消費者行動の分析に用いられる。選好関係が標準的な公理を満たすとき、無差別曲線は、右下がりで、原点に向かって凸の曲線となる。
一般的に消費者は、無差別曲線と予算線と無差別曲線が接するところ(最適消費計画と呼ぶ)で効用を最大化する。無差別曲線と予算線が接するということは、限界代替率が相対価格と等しくなることを意味する。

Wikipedia 無差別曲線

定義を見てもやっぱり具体的イメージができないのだが、英語版に出ているグラフや昔少し習ったことを思い出してみると、x軸とy軸が代替財の関係で、2財間での性質と予算の代替によって接点がきまる、みたいなことを聞いた様な気もするが、そうするとますます多数の財による一般化はできないし、そしてdemand independenceということも説明が難しくなる様な気がする。私の頭が整理できていないというのが真実なのであろうが、でも、もしかしたら一般均衡に適用する時にかなり無理な解釈をして、それでよくわからないことになっているのではないだろうか、という気もする。

無差別曲線我流解釈

個人的には、そもそもが人の効用を平面上の関数で表現することに無理があるのでは、という感じを受けており、多分、立体的なイメージで、やりたいことが多方面にわたって広がる中で、予算制約があるためにその予算の使い道を凹選好によって選ぶ必要が出てくる、ということなのではないか、という気がする。つまり、予算制約が立体的な凸部分集合、すなわち自分の意思決定基準に対して球状(正確な球である必要はなく、とにかく凸凹のないなんらかの球体状のもの)になり、それを平面上で記述したものが無差別曲線で、予算制約線とされているものは、実際にはその欲求から生じる需要に対する供給セットの価格線ということになるのではないだろうか。それが予算制約の凸部分集合と接する点で需給が一致する、ということなのでは。

多人数多財モデルの不可能性

なんか独自解釈すぎて、元の無差別曲線がみる影もない感じになってしまったが、理論的な部分を詰めても、多分無理がありすぎてどうにもならない。というのは、これで一応一人の多財モデルが成り立ったとしても、そこにさらに、需要者に対する供給者という側面で見るだけでも、それぞれの財にそれぞれの供給者がいるわけで、それが「供給セット」のような直線で提供されることはまずないからだ。複数の無差別立体的凸部分集合があって、その重なり合う部分で需給のマッチングが起こるということになりそうだが、それは一体どちらが需要でどちらが供給なのかもわからないというなんとも不思議な関係性を示すモデルになってしまいそう。

とにかく、こんな具合で、無差別曲線を多人数多財で一般化しようとすれば、とてもではないが単純な平面モデルで収まるものではなさそう。実際、ナッシュ均衡の説明も二次元グラフで行われることはまずなく、テーブルに置いて個別戦略の固定の様子を説明するのが精一杯であろうと思われ、グラフ化ができるのは2社による複占モデルであるクールノー均衡くらいまで単純化されないと無理なのだろうと考えられる。多人数多財の一般均衡なるものを単純なグラフで表現できると考えるのが無理なのだろう。

パレート効率性のもたらす市場の死

そもそも一般均衡がもたらすとされるパレート効率の世界はべつに望ましい資源配分を規定するものでもなんでもなく、単に他者の効用を犠牲にすることなく効用を極大化する、という、非常に既得権益擁護の色彩の強い話で、そんな均衡はそもそも必要とは全く思えない。市場でその都度合意が発生すれば良いだけで、その一つの合意によって全ての均衡が達成されるなどという数学的な因果関係が生じるような想定はどう考えても不自然。一つの取引が全く関係のない他者の効用を犠牲にすることがありうるなどというのがすでに言いがかりに近いものだからだ。仮に自由取引が他の契約関係と連動するということならば、そんな不自由な市場が効率的な市場とはどうにも考えられない。それは一体何の効率性なのか。自己で獲得し難い財を、市場を通したほうがコストが抑えられるので市場を用いるのに、それが他の契約関係と連動するなどという不自由さを持っているのならば、市場調達の意味というものが大きく損なわれる。そんな市場はもはや死んでいると言って良いだろう。

インターネット取引と一般均衡

インターネット取引の普及は、さらに一般均衡を成り立ちづらくしている。典型的にはAIによるダイナミックプライシングが挙げられ、これは誰も価格支配力を持たないという完全競争の定義にも当てはまらないし、市場の他の要素に影響されないというdemand independenceの定義にも当てはまらず、一般均衡を完全に空洞化させる技術だと言って良い。これは、効用にさらに時間軸での変化を加えることになっており、立体空間ですら把握しきれない様な、無差別曲線の完全な無意味化を示している。

これによって、ただでさえ有名無実の”厚生”経済学が、その基本である無差別曲線すらも無意味化され、もはや形骸化どころではない状態に陥っていることになる。それは、国家による経済政策の分析の基本ツールが全く役立っていない状態にあるということであり、今や何を根拠に経済政策が正当化されうるのかすらも定かではないのだ。

モデルなき世界でのDX

そんな中で、たとえエビデンスベースなどの話をしたところで、そのエビデンスが果たして意味を持つのかどうかを判断するモデル自体が信用できない状態であるという非常に恐ろしいことになっているのだ。一体、国会をはじめとした経済政策論争は、何に基づいてなされているのか。完全に個々人の自己満足で議論らしきものになっているのだとしたら、これ以上の茶番はない。

これはもはや政治家レベルでなんとかなる話ではないのだが、当面、政策の柱とも言えるDXにおいて、エビデンスに関わる部分がこんな状態である中で、一体どの様な理念を持って制度設計を行うのか、というのは注目が集まるところとなりそうだ。現状、経済政策直結の様なことはあまり出ていなさそうにも感じるが、「デジタル社会実現に向けた5原則」の②機動的で柔軟なガバナンスあたりは問題になりそう。この原則は、5つの中でも最も将来的な利用目的に近いものであると考えられ、それはシステムの設計思想に直結しそう。考えられるところでは、例えば予算執行タイミングの自動化の様なことが業務改革の一環で考えられているのだとしたら、そのアルゴリズムなどはかなり難しいことになりそう。そして、そこは政治家の介入余地が大きいところでもあると考えられ、DXをしたものの、政治家の影響力が温存され、なんら業務効率化に結び付かなかった、なんてことにもなりかねない。結局デジタルに託けて人を煙に巻くことのできる様な政治家の力が伸びる、などということのないようにして欲しいものだ。

問われる金融商品の必要性

無差別曲線から導き出される一般均衡は、経済政策よりもむしろ金融商品の方が大きく影響を受けていると言えるかもしれない。一般均衡点を発動要件としたデリバティブのようなものは、アルゴリズムを作りやすいからだ。だから、金融商品の認可に際しては、本当にそれに意味があるのか、ということが十分に検討されるべきであろう。特に、エコがらみのものは、完全競争を作り出すために消費されるエネルギーを鑑みて、本当に認められるべきなのか、ということはきちんと検討されるべきだろう。そもそも、トリガー設定をして発動するデリバティブの残高がわかっているから、そこを狙って相場を仕掛ける、ということも起きるわけであり、デリバティブ自体がリスク低減を謳いながら実はリスクを高めている可能性も十分にあるわけであり、そのような、謳っている効用と相反するような帰結をもたらす可能性のあるものを認めるべきなのか、ということが問われても然るべきなのだろう。一般均衡の理屈が怪しいことが明らかになってきている以上、それに基づいたような金融商品は禁止されるべきなのではないだろうか。

令和3年(辛巳)12月13日追記

一般均衡は、もしかしたら無差別曲線の2財モデルをいくつもの財に再帰的に何度も当てはめて、その中で最適解を導き出す、という考えなのかも、という気もしだした。いずれにしても、それは現実社会ではほとんど不可能で、全ての財が利益率によって相互代替可能な金融経済くらいにしか当てはまらないものだろう。そのモデルありきのために利益率至上主義が推し進められているとしたら、それはそれでやはり問題なのだろう。計算力を使って利益率を極限まで高めるような仕組はやはり望ましいものでも、意味のあるものでも、そしてエコなものでもあるとは思えない。

無差別曲線の理解に関しては、このようにまだまだ全く理解に至らず、揺れ動いているので、話半分で考えていただければ、と思うが、考えても理解に至らないようなもので社会が動いているという不気味さだけはなんとか伝えたいと考え、このまま公開しておく。

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