【世界の中の日本】維新に群がる有象無象
国内で攘夷運動が盛り上がる一方で、実際に外国と戦火を交えることも出てきた。その最初の例となるのが、文久3年(1863)の薩英戦争だ。
薩英戦争は、前回書いたとおり、生麦事件に対する報復と称してイギリス代理公使のジョン・ニールが、幕府から11万ポンド(第二次東漸寺事件の1万ポンドを含む)の賠償金をせしめた上に、更に薩摩まで自ら7隻の艦隊を率いて討伐に出向くという、およそ公使の名にふさわしからぬ、何の正当性も見いだせない軍事行動であったと言える。トップの公使が替わるだけで外交方針というものがここまで大きく変わるものか、と考えると、空恐ろしいものがある。
生麦事件の国際的背景
さて、薩英戦争の原因となった生麦事件の国際的背景というものを少し考えてみたい。宝島事件の所でも見たが、フェートン号事件以来、イギリスの名を騙ることで悪事の罪から逃れる、という事が、おそらくオランダを中心になされており、その結果として南蛮人の中でもイギリス人の評判は良くなかったのではないかと思われる。しかしながら、ハリスの通訳であったヒュースケンがオランダ出身であったことから、やはりオランダ人が余り良くない、という事が、実際の感覚として広がり、何とかそれをかわす必要が出てきていた。ヒュースケンはアメリカ国籍を取得していたので、アメリカをかませることでそれを行うようになったようだ。生麦事件に遭遇したのは4人のイギリス人であったが、そのうちの2人、クラークと死亡したリチャードソンは事件が起きた年62年に日本に来たばかりで、その前は上海におり、クラークはケシも扱っていたというアメリカ商社ハード商会に努めていたのだ。一方で斬られたリチャードソンは上海では非常に評判が悪かったようだ。そしてこの二人は、時期的には上海で、後から見る北京条約の締結に関わった直後で、オールコックの次に駐日本公使となったパークスと重なっている。もう一人のボラディル夫人も旅行で日本に訪れたところであり、日本に比較的長くいたのはボラディル夫人の義理の兄となるマーシャルだった。マーシャルは横浜で絹輸入業をやっていたと言うが、日本にとって絹は輸出商品であり、仮に輸入するにしても清から直接買えば良いので合って、三国間によって南蛮人経由で買う必要はどこにもない。だから、携わっていたとしたら絹輸出の方で、しかも英仏通商条約後なので、本国イギリスに売るのではなく、フランス経由で売っていた可能性が高い。つまり、イギリス人とは言っても、外国とつながりが深かったり、跳ねっ返りだったりして、イギリス本国との関わりは薄い人々だったと言える。
そして、事件後には生き残ったマーシャルとクラークは、これも事実関係はわからないが、アメリカ領事館であったという本覚寺に逃れたという。イギリス人ならばイギリスの公使館なり領事館に逃れるべきなのに、なぜかアメリカ領事館なのだ。ちなみにイギリスの公使館は、オールコックが第一次東漸寺事件の後に横浜に移していたが、オールコックが帰国し、ニールが着任した時に江戸に戻したながらすぐに第二次東漸寺事件が起き、再び横浜に戻しているはずである。つまり、イギリス公使館が横浜にあるのにもかかわらず、アメリカ領事館に逃げ込んだのだ。これを見ると、4人組はイギリス領事館には入れない理由があった、もしくはこの事件の背後にアメリカがいた可能性のどちらかが考えられる。前者ならば、彼らが有効なパスポートを持っていたのかが問われるし、後者ならばイギリスの評判を落とし、イギリスと日本との間に戦争を起こさせることを最初から計画していた可能性がある。ちなみに事件発生時点ではオランダにおける日本の管轄は植民地省だったが、翌年には外務省に代わっている。これは、イギリスが日本に戦争を仕掛けた時に、そのどさくさで賠償金をせしめるために外務省管轄にしてそれに備えた可能性がある。つまり、列強ぐるみで日本から賠償金を取る算段をしていた可能性があるのだ。一方で、フランスは、この事件後幕府に急接近し、これも後に出る横浜の鎖港にも理解を示したというが、なぜか生麦事件の解決交渉にも関わっているという。結局幕府は賠償金を支払って、日英の直接対決は回避されたが、それでは収まらなかったイギリスのニールは自ら薩摩征伐に乗り出すこととなった。
海のネットワーク
この背景には、薩摩藩が琉球王国を通じて南方貿易へのアクセスを握っており、琉球には倭寇以来の強力な海のネットワークがあって、それを壊すなり、食い込むなりしないと、日本にしろ、中国にしろ、そう簡単には入り込めない、という事があったと考えられる。
そこで一つ考えたいのが、アロー戦争で、列強が天津まで入り込んだという話になっているが、それは本当なのか、という事だ。アヘン戦争においてはイギリスは舟山島を攻撃し、南京で条約を結んだとされるが、舟山島はすぐに返還されており、それが事実だったのかはわからない。むしろ、東インド会社系の横暴な取り引きを、本国からの軍隊が徹底的に取り締まり、それによってまともな交易関係を築こうとしたのが、アヘン戦争と呼ばれているものの実態だったのではないか。イギリスの正規軍が揚子江まで易々と入れたのには、現地海上勢力の協力があってのことだと思われ、そのような倭寇的な海上勢力というのは、まさに古代から連綿とその海域を拠点に活動しているわけで、それを無視して西洋の艦隊が天津まで武力進出できるとは到底思えない。そして、アロー戦争においては、英仏軍が天津、そして北京まで進んで、それぞれ天津条約、北京条約を結んだことになっているが、もし仮にそんな簡単に北京までの侵攻ができたのだったら、果たして日清戦争の時に西洋で清が眠れる獅子などとおそれられただろうか。そしてその是非はともかくとして三国干渉までしてムキになって日本の領土割譲を差し止めただろうか。自分たちができなかったことをやられてしまったので、そこまでムキになったのだと考えた方が自然だろう。英仏連合軍の北京侵攻の重要証人となっているのが後に駐日本公使となったハリー・パークスとなる。この人物は怪しいことだらけなのだが、ここでは余り深入りしないこととする。
不平等条約 天津条約
さて、既に述べたとおり、アロー戦争の際に結ばれた条約として、北京条約の前に天津条約というものがあるとされているが、その内容が非常に怪しい。その締結順序はロシア、アメリカ、イギリス、フランスであり、全く関係のないアメリカがそこに出てくる意味がわからない。アメリカは、アヘン戦争の時にも、虎門寨追加条約のあとから来て、それよりもはるかに不平等な条約を押しつけている。ロシアにしても、その直前に愛琿条約を結んでおり、北京条約も含め、続けざまに三つの条約を結ぶという状況はなかなか想像しがたい。まあ、そのたびに清が譲歩を強いられているのだから、それを反映したものだとみるべきなのだろうが、なぜそこまでずるずると譲歩を重ねるのかは理解に苦しむところがある。これは、基本的に考えれば、この強圧的な条約交渉がロシアが主導することによって行われたのだ、というアリバイを作るために、フランスが、更にアメリカを間に挟むことでリスクヘッジをした上でなされたことだと考えるべきではないかと思う。
この背景にはいくつかの要素があり、まずは天津条約を清側で署名しているのがモンゴルと関わりの深い人々であるということがある。モンゴルは清とロシアの間に位置する勢力であり、それをどちらが握るかによって形勢は大きく変わる。だから、海には余り利権を持たないモンゴル勢力との間に開港に関わる条約を結んでしまえば、それを既成事実化できるという事がありそうだ。
一方、ロシアでは外務大臣がドイツ人で、母親が絹の生産地リヨンにほど近いドーフィネ出身のユグノー系フランス人であるカール・フォン・ネッセルローデで、ロシア語は読み書きが全くできず、会話は雑にこなせる程度だったという。このあたり、ヨーロッパ情勢は非常にわかりにくいが、キリスト教系のオーストリア、ロシア、そしてプロイセンという3つの大国の間で形成されたという世俗同盟である神聖同盟というのが影響してきそう。そして、ネッセルローデはそこにフランスを絡ませるような動きをしたかも知れず、それによってフランスとロシアがつながってきたかも知れない。そこで、フランスがロシア外交を動かす形で北方からモンゴルと清との間にくさびを打ち込み、それをてこにして一気に不平等条約を、関係のないアメリカを含めて四カ国と結ぶことになったのではないかとみられる。
それらの人々が関わる形で条約交渉が行われていたのだろうが、日本の状況と重ね合せると、清でもかなりひどいことがなされたのではないかと考えられる。これについては更なる真相究明が必要であるが、今はこれ以上は進めない。
薩英戦争の背景
このように、清の北部への進出は、海からではなく、ロシア経由の陸から進められた可能性がある。そうすると、薩摩を叩くとは、要するに、今言われているところの第一列島線を突破するのに、鎖国をしていた日本を叩けば、そこから中国北部への海路が開けるという事があったのではないかと想像できる。実際、朝鮮へのフランスやアメリカの接触が始まるのは日本の開国後、しかも薩長同盟が結ばれた後で、西国が反幕府一色となって攘夷の不安がほぼなくなってからのことであり、しかもその朝鮮ではひどい目に遭っている。軍鑑数隻で打ちのめされるような戦力差は、雑な長州を別とすれば、その時点では欧米とアジアの間には存在していなかったと考えられるのだ。特に、イギリスは別格として、フランスやアメリカ程度ではアジアでは全く歯が立たなかったように見受けられる。そんなこともあっての、上にも述べた眠れる獅子、という表現になってゆくのではないか。
薩英戦争の展開
それはそのまま薩英戦争の結果にも表れていた。戦争自体、イギリス側が薩摩の船を捕獲したことから始まった。つまり、先制したのはイギリスの方だった。それに対して、薩摩砲台が火を噴き、戦闘が始まった。艦隊が大砲の射程内にある状態で船の捕獲をするという、全くなめきった行動から起こった戦いだった。結局、被害で言えば大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人に及んだ英国側の方が圧倒的に大きく、悔し紛れに民間居住地に艦砲射撃を食らわせて勝利を装うという、非常に野蛮な上に幼稚きわまりないやり方で、薩摩からも2万5千ポンドの賠償金をふんだくることに成功している。ただ、薩摩はこれを幕府から借り、結局返していないので、最終的には幕府が支払ったことになる。
およそ、領事が自ら軍鑑に乗り込んで、脅迫、最後通牒までして、実際に戦争を始めるなどと言うのは、近代戦争はおろか、過去に遡ってもなかなか例を見つけ出すのは難しいのではないか。なぜそのような略奪者を特権を持つ外交官として向かい入れる必要があるのか。しかし、残念ながら、この人物はその後も代理公使として元治元年(1864)まで居座ることになる。
攘夷運動の盛り上がり
下関戦争に移る前に、幕府が攘夷を命じざるを得なくなった過程を見る必要がある。そもそも、幕府はずっと開国路線で進んできて、それで勅許も得ずに開国を強行したのにもかかわらず、その開国後に攘夷の命令を下すなどと言うのは、朝令暮改などといったものではない。なぜ国を開いた相手を打ち払うなどと言う命令を下すことができるのか。他藩にやらせる前に、まず独断で結んだ条約を廃棄するところから始めなければ全く筋が通らない。
幕府が攘夷を受け入れたのは、文久2年(1862)に孝明天皇の妹和宮親子内親王を将軍徳川家茂の正室に迎え、それに対して幕府は降嫁と引き換えに攘夷として10年程度の猶予を持って日米修好通商条約などを破棄して和親条約に引き戻すことを朝廷に約束した。
それを受けて幕府は文久の改革を行うが、その最中に生麦事件がおき、政情は混乱しだした。この頃は、まさに老中から人材が払底していた時期であり、政策の継続性を担保できる人物は誰もいなかった。代わりに一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職に任命したが、いずれも開国派であり、継続性を考えれば、幕府は武力による攘夷などやる気もなければ命ずる気も無かった事がわかる。
一方京都では攘夷論が盛り上がっており、三条実美を正使、姉小路公知を副使とする攘夷別勅使が幕府に送られた。幕府の方では松平春嶽が条約撤回を主張し、それに収まりかけたが、一橋慶喜がそれに反対し、自ら天皇を説得すると言いだし、それによって議論は紛糾した。そこへ勅使の到着によって、将軍家茂は攘夷を約束し、翌年の上洛で具体策を協議することとなった。このあたりは国内政治となるので詳細は省くが、この後生麦事件への賠償金支払いが決まり、その代わりに横浜を鎖港することで攘夷を実行したこととした。
ちょうどその頃、長州は独断での攘夷実行と言うことで、馬関海峡を航行中のアメリカ船始めフランス船、オランダ船と次々に攻撃を仕掛けた。長州といえども、イギリス船に手を出していないのは、長州が配慮したと言うよりも、おそらくそんな鼻先を通って挑発したのはイギリス以外の国だったと考えるべきなのだろう。
それに釣られるかのように攘夷運動は過激化した。もともと孝明天皇は、攘夷と言っても、武力でのそれではなく、条約の内容をもう少し話し合うように、というような立場であったのにもかかわらず、その攘夷論を利用して、長州や過激派の公家が攘夷親政、つまり朝廷の磯城による攘夷実行に話をすり替えて過激化させていったのだ。それは薩英戦争と共鳴することになる。その戦争は、細かい事情が伝わらなければ攘夷戦争が起こったと言うことになるが、それでも薩摩の攘夷は支持されても、長州の攘夷は支持されない、という状態になっていた。そこで長州はますます追い込まれ、都を確保しての攘夷実行へと暴走を始める。それに対して薩摩や会津が長州を締め出すためにおきたのが八月十八日の政変であった。これによって攘夷派の七公卿が長州軍と共に都を落ちて長州へ向かった。これによって、横浜鎖港を軸とした攘夷論が展開してゆく事になる。
下関戦争の背景
元治元年になるとオールコックが帰国したが、その頃には下関海峡の閉鎖が恒常化しており、オールコックはそれを危惧していた。彼は、イギリスに留学していた伊藤俊輔と井上聞多と面会し、長州の説得を試みた。結局それも功を奏さず、四カ国連合艦隊は長州攻撃を開始する。オールコック帰国後におきたという事で、彼が主導したとも考えられがちだが、彼は基本的に非常に真っ当な外交官であり、直接軍事に介入するようなことをするとは思えない。それよりもむしろ、薩英戦争で苦杯をなめ、今回の四カ国連合艦隊で司令官を務めたオーガスタス・レオポルド・キューパー中将が、汚名返上を期して主導したと考える方が自然では。
しかし、戦後にはなるが、オールコックは結局この軍事行動の責任を問われ、本国に召還された。これによって、ハリー・パークスが公使となり、日本は外国における最大の理解者を失うことになった。こうは書いたものの、実際にはオールコックの再来日からパークスへの公使交代にいたるいきさつは、オールコックが文久の遣欧使節を支援するために帰国したのは間違いなさそうだが、それ以降のことについては今のところよくわからない。だから、パークスについてまだ書くことができないのだが、とにかく怪しい人物であることは間違いない。そして、下関戦争の実態も、パークスの実像が見えないとよくわからない。
だから、これはかなりの部分、想像に過ぎないが、おそらくこの戦争は、薩英戦争で惨敗を喫したイギリスにとっては名誉挽回の機会となり、むしろその場を作りつつ、長州に攘夷の御旗を握らせた上で薩摩との連携による倒幕の道を探ったと考えるべきなのかも知れない。それは1艦隊司令官にできることではなく、オールコック、そしてその後のパークスの人事を行った、外務大臣ジョン・ラッセルの戦略であったと考えるべきだろう。ただし、ラッセルが極東情勢にそれほど深く通じていたとも思えないので、現地にいた誰か、とは言っても公式にはオールコックになってしまうのだが、おそらくは上海にいたと思われるパークスと、キューパーとが企んだものではないかと思われる。そして、伊藤俊輔と井上聞多が本当にイギリスに行っていたのだったら、その2人も絡んでいる可能性が非常に高いと思われる。この戦争で長州の状況が一気に変わっていったことを考えると、その背景には明治維新を読み解くには欠かすことのできない何らかの重要な秘密が隠されているとみるべきだろう。
下関戦争の帰結
いずれにしても、現象面だけ見れば、薩摩に比べれば、長州の戦略も、大砲などの扱いも、子供のようなもので、しかも今度は四カ国艦隊が相手と言うことで勝負になるはずもなかった。長州は惨敗の上、300万ドルの賠償金支払いを幕府に振るという醜悪きわまりない行動に出た。自分で幕府に攘夷命令を出すよう圧力をかけ、しかもその幕府が止めるのにもかかわらず勝手に攘夷を実行し、その上で報復を受けて惨敗してその賠償金支払いを幕府に振るという、何一つ評価のしようもない、どうしようもない行動を行った長州が、勝者然として権力の中枢に居座ったのが、明治維新なるものの実態だったと考えると、これほど不幸な「革命」もない。まあ、革命などは常に威勢だけが良い目立ちたがり屋が権力を握るろくでもない仕組であるのだが。
それはともかく、この下関戦争の結果を受け、イギリス艦隊は賠償金の交渉のために兵庫沖に移り、兵庫の早期開港を求めた。これは、イギリスにおいて死ぬ直前まで首相を務めていたパークストンが亡くなった直後であり、パームストンの目の黒いうちはそこまで無茶はできなかったが、ついに重しがとれて勝手放題をしだしたのだと言えそう。この事件を持ってイギリスのいわゆる新植民地主義的なものが始まったと考えても良いのかも知れない。それはともかく、兵庫は京都のお膝元ということもあり、孝明天皇が開港に強硬に反対していた港だった。それを交換条件に出され、天皇は仕方なく修好通商条約が有効なものであるということを認めざるを得なくなった。天皇にそのような屈辱的な条約締結を強いたのが、「尊王攘夷」の名の下に見込みのない攘夷を行って列強につけいる隙を与えた長州や攘夷派の公家、そして幕府側ならば水戸藩と言うことになるのだ。そんな水戸藩出身の一橋慶喜が最後の将軍となり、江戸幕府に幕を引くことになる。幕府解体派の見事なまでのリレーであると言える。そして、その背景には、イギリスのパーマストンの死による大きな方針転換があったことは見逃せない。明らかに天皇の顔に泥を塗るようなやり方は、日本人の中からさっと出てくるような知恵ではない。もちろんその考えのヒントになるようなことを提示したものは、長州に落ちた七卿などを中心にいたであろうが、たとえ考えがあっても、それは外国の力がなければ実現不可能なものだった。日本史上における歴史的な出来事であったのと同時に、おそらく清の北京条約の時にも同じようなことがなされたのではないかと疑うべき理由は十分にある。そしてその両方に関わっていたのがパークスだと言うことだ。
孝明天皇は67年の正月に謎の死を遂げ、そこからはその年末に大政奉還、明けて戊辰戦争、そして明治維新とまっしぐらに歴史が動き出すことになった。
Photo from WIkipedia 薩英戦争
Bombardment of Kagoshima. Source: "Le Monde Illustre", december 5th 1863.
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