広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(14)
元就の本拠 吉田庄
『棚守房顕覚書』を見てきて、元就が本拠とした郡山、この郡山という地名は当該本には一度も出てこなかったが、とにかくそこを吉田としようとする動きが感じられたことは何度か触れた。そこで、その吉田というのがいったいどのような経緯で、どのような意味を持って取り上げられてきたのか、その背景を独断と偏見で探ってみたい。
吉田庄の記述
ではまず、吉田庄について、『高田郡史』からみてみたい。
文献整理
ここでそれぞれの文献についてまとめると、
『祇園社記』
『祇園社家条々記録』
『祇園社家記録』
となっている。順序としては、『祇園社家条々記録』、『祇園社家記録』、『祇園社記』の順となる。
『祇園社家条々記録』
そこでまず初めに書かれた『祇園社家条々記録』の内容をみてみると、保元々(1156)年十月というのは、その前年七月に近衛天皇が亡くなって後白河天皇が即位、そしてその年七月には鳥羽上皇も崩御され、さらに保元の乱によって崇徳上皇が讃岐に島流しとなり、院は誰もいない状態であった。にもかかわらず、本家の主がいないまま、寄附がなされたということで、本家院領、領家平清盛となっているので、それを領家の清盛の独断だったと考えると、久安二(1146)年に安芸守に任じられた平清盛による保護というべきか、あるいは横領というべきか、そのような行動について証拠を残しているとも言えそうだ。
清盛は、「鳥羽院の時代に厳島神社を信仰すれば一門が繁栄するとの予言を得たため、厳島神社の造営を行わせた」、と『平家物語』で述べられている。そして、この少し後から高田郡では神主佐伯景弘の下で厳島神社の社領化が急速に進展している。保護を求めるのならば祇園社よりも厳島神社の方が筋が通っていそうだ。
一切経は仏教経典であり、本来的には寺院でなされるべきものだろう。それを、いくら外来神の色合いが強いとは言え、特に平家とのつながりが深いとも言えず、そして後には反平家の色合いの強い『平家物語』を語り継ぐ中心となった祇園社でやるから寄附、というのは、どうにも話が通じ難い。
特に、清盛と祇園社との関係では、久安三年六月十五日(1147年7月14日)に祇園社の神人と平清盛の郎党が小競り合いとなり、宝殿に矢が当たり多数の負傷者が発生した祇園闘乱事件が発生しており、その関係は良くなかった。忠盛がこの事件を受けて自領を祇園社に寄進したともされるが、選りに選って厳島神社に近い場所から寄進するとは思えない。
鎌倉末期の厳島神社の動向は明らかではないが、建武の新政直後には神主家当主が足利尊氏に属して討死したとみられており、厳島神社の社領は建武の新政によって危機に晒されていたことが想像される。元亨元年(1321年)には、後宇田上皇が院政をやめ、後醍醐天皇による親政が開始されており、その中で平家と繋がりの深かった厳島神社の社領を他のところに付け替えるという動きが起こったのかも知れず、その流れの中でこの記事が書かれた可能性もありそう。
ついで延慶三(1310)年の方だが、この時期は持明院統の花園天皇で治天の君は伏見上皇が勤めていた。伏見上皇が亡くなった後、後伏見上皇の時に、両統迭立のために花園天皇が在位十年で退位され、その後に後醍醐天皇が即位したことになっているが、本来ならば後二条天皇の息子である邦良親王が即位すべきところであり、後醍醐天皇の即位には様々な問題があった。そんな後醍醐天皇の時期に書かれたこの『祇園社家条々記録』で、上の記事が書かれていることを考えると、持明院統の伏見上皇の院宣で安芸国吉田庄のことについて述べられているというのはどうにも引っかかる。この両方の記事は一体のもので、厳島神社の社領を祇園社に付け替えようとする一貫した動きを後醍醐天皇が支持しており、それに従って祇園社で残された記事なのだと考えることができるのではないだろうか。
『祇園社家記録』
さてそれでは『祇園社家記録』収録の正平七年の記事であるが、この前年正平六年/観応二年(1351年)六月二十六日、花山院家嫡流当主長定が内大臣に任ぜられたが、任内大臣の兼宣旨はなく右大将は元の如しで、同年九月十九日、素懐を遂げ出家した、という。その父家定は、文保元(1317)年冬から籠居して出仕しなくなり、文保二(1318)年三月に出仕するも再び籠居したが、後醍醐天皇の即位に関する行事には出仕しているという。同年八月十五日、任大臣の兼宣旨があり、八月二十四日には右大臣に任ぜられたが、右大将は元の如しで、十二月十日に右大将を辞した、という。これは、もしかしたら、家定が後醍醐天皇の即位に大きく関与し、その恩賞としてかなりの特例として右大臣となったが、正式には右大将程度の扱いでしかなく、十二月になってからようやく正式にその役職に就くことができた、ということがあった上で、その息子長定が観応の擾乱含みで内大臣の内示を受けたが正式な宣旨は出ずに出家に至った、ということなのではないか。さらにその上でこの『祇園社家記録』の記事となるが、会料について花山院家から文が出てそれによって会料可沙汰云々となった、ということで、そこでは寄方分については難しいとされ、その寄方からの状が地頭の毛利備中前司の許にも届いている、という内容となるのだろう。つまり、花山院家は南朝にかなり肩入れしており、そして祇園社も全体として南朝の力を借りて、ここに出ている記事に関して言えば、厳島神社の社領を蚕食したということになるのではないだろうか。だから、寄方側である毛利の立場が重要となり、そこで『棚守房顕覚書』での毛利にかかわる微妙な筆致になってゆくのかも知れない。
『祇園社記』
最後に江戸時代になってからの編纂である『祇園社記』だが、久安五年三月の記事で、勅願によって一切経会を始めるのに安芸国吉田庄から本家米三百石を領家花山院家雑掌のために沙汰する、という内容で、一切経会が近衛天皇の勅願で始まったということを新たに加えているのだと言えそう。久安五年というのは、平清盛の異母弟である平家盛が亡くなった年であり、それによって清盛が平家の棟梁となることが決まったのだと言えそう。
なお、家盛に関する情報は、ほぼ『平治物語』に依拠していると思われ、『平治物語』によって家盛、頼盛の兄弟が池禅尼の子供で、そしてその池禅尼が頼朝の命を救ったという話も出てくる。『平治物語』は、『保元物語』などと同時期の成立だとされるが、実際にはこの祇園社記の久安五年という元号が家盛の死と同期していることを考えると、江戸、元禄時代くらいの成立だと考えることもできるのではないだろうか。
そしてそれは、宝永六(1709)年に日向伊東家に最古の写本が寄進されたという『曽我物語』も同時期である可能性があり、それは吉川氏に伝わる『吾妻鏡』に『北条本』にはなかった三年分の記事があり、その中に実朝の乳母であったという阿波の局の死亡記事があったことから、それによって伊東祐親の孫にあたる千鶴と実朝である千幡が別人であると定まり、『曽我物語』が書けるようになったという可能性もあるのではないだろうか。
それはともかく、保元々年の記事と比べると、領家が花山院家と平清盛で異なっている。寄附をしたのが花山院家なのか清盛なのか、ということになりそうだが、いずれにしても、寄附をして領家が変わるというのもよくわからない話なので、この編纂記事に関して言えば全く当てにならない、というのが妥当なところであろう。あるいは、清盛を花山院家の雑掌であった、ということにするつもりだったのかも知れない。
なお、花山院家は家忠という人物から始まっており、そこで江戸幕府の将軍の多くが通字として用いており、家盛にも通じる家の字が重要になってくるのだと言える。そして、清盛の清の字が通字になるのならば、まずは竹谷松平家の家清という人物がおり、その系統は清の通字を持つ人物が多いということで、そちらが将軍家の系統になるという可能性もあったのかも知れない。一方で花山院家の血を引く大名家として青山氏があり、老中などを輩出したが、忠を通字としていた。さらに家紋として青山銭とも呼ばれる無字銭を用いており、これは先祖の師賢が後醍醐天皇から銀銭を賜ったことから孫の師資が家紋にしたとされる。忠に清をつけると忠清となり、こちらは酒井氏や水野氏にその名を持つ人物がいる。特に酒井忠清は大老にまでなり、物語の語られ方次第では将軍になっていた可能性もあるのかも知れない。
ここで、編者とされる宝寿院行快について、その情報はほとんど当てにならないのでは、という印象を受けるが、それでも一応どういう文脈でこれを繋げようとしているのか、という話は見えてくるかも知れないので、その情報に基づいて解釈してみたい。敦賀藩主酒井忠稠四男ということで、忠清と同系統の雅楽頭家に属する人物となる。敦賀というのは神功皇后の朝鮮征伐に関わる氣比神宮があり、その意味で平家の得意としていた水軍に関わるとも言えそう。また、南北朝時代には徳川が先祖とする新田義貞に関わる金ヶ崎の戦いの舞台となっているということがある。青山氏は見ての通り南朝系の話を持っている大名家であり、また、忠という字を平家の中で見てみると、時忠という人物に突き当たる。この向背定らぬ人物の屋敷は平家没官領とされたということで、平頼盛の話にも重なってくる。先ほど見た通り、頼盛は『平治物語』で造形された可能性もあり、その場合、モデルはこの時忠だったということになるのかも知れない。そんな忠と清を合わせた忠清は、北条時政のような執権的存在を目指していたともされ、そして宮将軍をかつごうとしていたともされる。つまり、将軍を傀儡として、雅楽頭家が世襲する大老家が実権を握る、ということを考えていた可能性もある。
祇園社から流れる文脈は、このように様々な方向に広がっている可能性があり、注意深くその影響を見てゆく必要があるのかも知れない。