社会的意思決定は可能か

民主主義では特に重視されるのが、社会的意思決定となる。しかしながら、それは本当に可能なのだろうか。

基本的に、人間には認識の限界があり、すべての人の目で社会を眺めることはできない。である以上、個人に社会的意思決定を委ねるというやり方は根本的に間違っているのだといえる。その手法を正当化するために、一般意思なるものが想定され、それを受ける形での付託を受けた権力者による意思決定が社会的意思決定として尊重されるべき、という本末転倒ともいえる話になる。そもそも不可能な社会的意思決定を特定個人に委ねる、ということ自体ねじれているのに、さらにその意思決定への従属を強いる、などというのは二重の捩れであり、受け入れられる話ではない。

社会的意思決定というのは、単一の意思から発せられるものではなく、個々人の意思決定が集まって集合的に定まるものであろう。その時に、より良い社会的意思決定を望むのならば、一人一人がなるべく他者に干渉せず、できることならばプラスサムになるような意思決定をすることであり、それは競争のようなゼロサムや駆け引きのようなマイナスサム、あるいは指揮系統による従属によってなされるべきものではないだろう。

これは、おそらくスミスのいう共感に基づく市場の状態であるのだと考えられる。つまり、市場による共感に基づいた個別のプラスサムの合意形成の積み重ねが、それぞれの人にあった分業形成を行い、結局社会全体の動きを決める、という考え方ではないか、ということだ。利己心とは人を押しのけてでも自分の利益を確保する、ということではなく、人の利害に干渉しない範囲で、できれば人にプラスの効果を及ぼすように、自分のやりたいことを追求する、ということであり、それがナッシュ均衡の状態を作り出し、それぞれが戦略を変えなければやりたいことが似ている人同士を結びつける、という作用をもたらすのではないか。そこに、競争や駆け引き、指揮系統を用いて排他的自己利益を追求するようになると、完全競争均衡、ゲーム理論、クールノー均衡あるいはベルトランモデルのような状態が発生し、利益による市場の歪みが発生する。

このように、社会的意思決定とは、排他的自己利益を排した、個別の相補的利己心の追求によって事後的に顕在化するものであり、社会的意思決定ありきでそれに向けて競争、駆け引き、指揮系統によって実現される、というものではないのだろう。それはまた、一般意志のような御託宣を受けた代表者が社会の意思を推し測って政策実行を行う、という、現在の政治スタイルによって実現されうるものではないことを示す。代表者による間接統治制度では、人の認識限界がある限り、社会的意思決定は論理的になされ得ないのだ。それは、どこで少数者の意思を切り捨てるかの範囲設定の判断の責任を代表者に委任する、という仕組であり、社会的意思決定の範囲を限定することが代表政間接統治の本質だといえるのだ。だから、それは本質的に自由抑圧的であり、そして判断速度を上げれば上げるほど切り捨て範囲が広がり、利己的意思決定に近づいてゆく。つまり、所謂”決められる政治”ほど社会的意思決定からかけ離れたものはない、ということになるのだ。

判断の早い利己的意思決定に基づいて社会的意思決定がなされるようにするためには、個別の相補的意思決定を促進するようにする必要がある。つまり、独裁制や間接民主制のような代表政間接統治ではなく、直接民主的手法に切り替える必要があるだろう、ということだ。それには、競争や駆け引きを排した相補的合意形成を促進する必要があり、それは選挙によるものよりも、クラウドファンディング的投票の方がより実現されやすいだろう。つまり、人ではなく、具体的個別政策について投票を行い、賛成者数から反対者数を引いた数字を基準にして政策遂行を行う、というやり方だ。それは、社会的報酬をインセンティブにする、という誘導的なやり方ではなく、あくまでも個別判断を重視する、というやり方であるべきだろう。

それは、インターネット技術によってある程度実現可能なのではないかと考えられる。相補的利己心の積極的発露によって社会的意思決定がなされてゆく社会の実現を一緒に目指してみませんか。

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