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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(28)

純友がいかに住友となったか

前回藤原純友の話をずいぶん膨らませて書いたが、それを住友に繋げようとするのはさらにアクロバティックな知恵の絞り方が必要となる。引き続きNonFictional-Fictionでお楽しみいただけたら幸いです。

ケンペルの『日本誌』

住友は別子銅山から始まっているというのはすでに書いたとおりだが、その別子銅山の開坑は元禄四(1691)年とされる。その年は、オランダ商館のエンゲルベルト・ケンペルが江戸に行き、将軍綱吉と会ったとされている。ケンペルの『日本誌』は英語版やフランス語を含めヨーロッパで広く出版され、フランス語のディドロの『百科全書』の日本関係の項目がほとんどこの『日本誌』を典拠としていたということで、それによって日本の情報がヨーロッパに広がり、日本が初めて参加した1867年のパリ万博を一つのきっかけにしたジャポニズムの展開に繋がっていったのだとといえる。資料的な裏付けは全くないのだが、この話はどうにも出来すぎているように感じる。ここの部分はほぼ完全にFictionとなるが、個人的な感覚では、このパリ万博に合わせて日本ブームを作るという目的が最初にあって、そのために『百科全書』に日本に関わる記述がある、という話題を流し、そしてその原点としてケンペルという人物がオランダ経由で日本との関わりを持っていて、『日本誌』という本を書いていた、という話を後付けで作ったのではないか、と感じている。つまり、『百科全書』の内容が『日本誌』からの引用を用いて書かれたというよりも、逆に『百科全書』の内容の原典となるような書として『日本誌』が後から作られたのではないか、ということだ。

オランダという国の存在証明のための日本

そうなると、オランダが鎖国時代の日本の唯一の窓口であったという話自体非常に怪しいものではないか、という疑惑も浮上する。実際、オランダが日本にやってきたとされる時期は、スペインとの八十年戦争の真っ最中で、極東の島国と交易、などと言っている余裕があったとは到底思えない。そしてその後もナポレオン戦争で国自体が亡くなった時にも出島での交易は続いていた、というような、どうにも信じがたい話があるわけで、率直に言って近世の17世紀から19世紀初頭にかけて、オランダという国が本当に存在したのか、ということすらも十分に怪しいのではないかと感じている。そしてその存在を立証する非常に強い根拠として日本と交易をしていた、という話があるわけで、日本はその根拠づくりのために利用されたという可能性も十分にあるのではないだろうか。

キリスト教伝来への疑問

少し話が広がりすぎるかもしれないが、そうなると、オランダに先立って日本に伝わったとされるキリスト教についても疑わしいという感じを想起することになる。毛利氏のところで多治比というのがアラビア語からきているのでは、ということを書いたが、キリスト教よりもイスラム教の方が距離的にも日本にははるかに近く、そしてシルクロード以来の中央アジア経由の交易ルートも、そしてインド洋から東南アジアに広がる海のネットワークも比較の余地もなく充実していた。そう考えると、イスラム教よりも先にキリスト教が伝わる、と考える方が不自然なわけで、16世紀中頃に日本に伝わったのは、実はイスラム教であったのではないかと考えてみる思考実験は十分に見込みがあると私は考える。そうなると、キリスト教が伝わったのは現代にほど近い時期だということになりそうで、その段階でイスラム教として伝わっていた話をキリスト教の話に大幅に切り替えたという大掛かりな歴史ミステリーのような話になってくる。それをできるのは、カトリックが伝来したのだ、という話の筋に従うのならば、カトリックの大国であるということになり、そうなると、普通の感覚では今でも常識となっているフィリピンに拠点を持っていたとされるスペインが、というのは十分に自然な話ではある。しかしながら、当時連合王国で、しかもスペイン内でかなり優遇されていたはずのポルトガルとスペインの関係性において、なぜポルトガルの話としてキリスト教の伝来の話が伝わっているのか、ということに上手い説明がついているとは思えず、それはスペインとしては積極的にその話に繋げられるほどに筋が通っていない、ということがあるのではないかと考えられる。その議論自体はとても広範な範囲にわたって検証する必要があるので、ここではとてもではないが触れることはできないが、いずれにしても、ポルトガルはのちにスペインから独立しているわけで、その意味ではオランダと立場が非常に近いということになる。つまり、カトリックの大国ハプスブルグスペインからの独立を目指すオランダとポルトガルという共通点があり、オランダがスペインから独立したのだ、という話を通すためには、東洋でスペインが日本と交易していた、ということになるとどうにも建て付けが悪くなる、というオランダ的な事情が浮かび上がってくる。となると、ポルトガルがキリスト教を伝えたのだ、という話自体もやはり怪しい、ということにならざるを得ない。

1867年パリ万博

こうしてみてくると、カトリックの大国でアジアを含めた海外進出も積極的に行なっていた国となると、ずっと下ったナポレオン三世以降のフランスとならざるを得ない。となると、やはりパリ万博に合わせて、ナポレオン三世が国の威信をかけて日本との繋がりがあったという話を構築する必要があり、それによってかなり強引に話を作っていったのではないかという推測が成り立ちそう。パリ万博には徳川家の当主、徳川昭武も訪問しており、そこで徳川を巻き込んで大規模な歴史創作を行なうことが決まったという可能性が浮上する。スペインについては当時すでに王家がフランスのブルボン王朝系統に変わっており、ある程度の話を通すことはできたのだと考えられる。

オランダの国際的文脈

そしてその尖兵となったのは明らかにオランダであると推測することができそう。そのオランダとアジアとのつながりをどこに求めるかというと、ナポレオン戦争後のウィーン会議でヨーロッパの国境が再編成された後にようやく低地地方の領主家であったオーストリアの参加したドイツ連邦とそこに参加しないオランダとの区別が明らかになり、ヨーロッパの中で立場を打ち立てるためにフランスに擦り寄り、その尖兵としてアジアに向かったのではないか。最初は当然中国を足がかりとすることを目指したのだろうと思われ、その一環として、まずはアヘン戦争、ついで太平天国の乱というキリスト教の影響の大きい反乱などに関与して、習慣や宗教に干渉することで社会に大きな混乱をもたらすことができるということを学習したのではないだろうか。

盛られた?ペリー来航

日本に近代最初にやってきたのはアメリカ人ペリーだとされるが、南北戦争前のその時期にアメリカ人が太平洋を渡って日本までやってくる、という状況を想定することは難しそう。現在では、その時期に欧米諸国はかなりアジアに浸透していたと解釈されているが、具体的事例を追ってゆくとそれはかなりの部分誇張されていると感じる。その上で、海軍がそれほど整っていたとは言い難いアメリカが、西海岸到達直後に太平洋を渡って日本にまで至る、しかもそういった海外船の出没が頻発していたので水や薪の補給のために条約を必要とした、というのはかなり無理があるのではないかと感じる。アメリカが捕鯨をしていたというのは、『白鯨』という作品で取り上げられているというのが大きい。1851年に発行されたとされるその作品中には「Japanese sea」「coast of Japan」、そして『Niphon』の表記があるということでその時点でそこまでかなり浸透していたことを示しているが、米墨戦争の終結によってアメリカが西海岸に到達したのが1848年、翌1849年にはカリフォルニアでゴールドラッシュが始まっており、それとほぼ同時期に太平洋捕鯨を確立するというのはあまりに荒唐無稽のように感じる。『白鯨』は1926年にサイレントで、そして1930年にトーキーで相次いで映画化されている。日本では大正天皇が薨去されて昭和時代に入った時期で、昭和金融恐慌から世界恐慌へと至る頃の話となる。石油の実用化に伴い、日本からの大きな輸入品であった絹、そして鯨油の代替物が石油から製造可能となり、貿易構造を変える必要があった時期だとも言える。そこで、明治維新の歴史に関わる部分で日本に揺さぶりをかけるために、『白鯨』の出版がペリー来航よりも前だったとして、映画を先行させて話題作りし、既成事実化したという可能性は考えられないだろうか。
個人的には日米和親条約なるものが本当にあったかということはさらに検討する必要があると感じている。その条約の英文表記にはEmpire of Japanとあり、江戸幕府下の国をわざわざ和文にも表記のない帝国と表記するか、ということについては大いに疑問がある。いずれにしても、西洋文明との接触の時期にいったい何があったのか、というのはさまざまな可能性を考慮に入れて検討する必要がありそうだ。

別子の地名由来は?

ここまで、完全に説得的とは言い難いが、オランダという国が江戸時代に幕府と密接な交渉を持っていたということをいくつかの角度から反証してみた。そういうことを考えた時、なぜ別子銅山が元禄四(1691)年に開かれた、ということになっているのか、という問題に戻ることになる。ここでもう一つアクロバティックな推測を入れることをお許しいただきたい。それは、別子という地名についてだ。Wikipediaによると、別子銅山のある新居郡に坐す武国凝別命を祀る伊曽乃神社に係る伝承で、武国凝別命の子孫は一帯に広がり、「別」の子孫が治めた事から「別子」(べっし)の地名が生まれたとの伝承も残っている、とされる。つまり別とは姓である可能性があるのだといえそう。 ここで、伊予の出身とされる河野氏は越智氏の流れであるとされ、ここに越という字が出てくる。さらに、現在の北陸地方には越前、越中、越後と越のつく国が三つもあり、これは吉備と並んで日本広しといえどもこの二例しかない。つまり、越の国というのは吉備と並ぶほどの勢力を持っていた可能性があるのだと言える。今でこそ北陸となっているこの越の国、元から本当に北陸だったのであろうか。越というのは中国古代に長江沿岸に歴史が残る国の名であり、銅の使用に長けた国であったとされる。日本古代でも銅鐸や銅鏡の出土例が多くあり、銅の文化があったということを示唆している。もっともこのこと自体はさらに議論すべき要素が多くあるので、特にこれらの銅文化が目立つ出雲や三遠地方が即、越の文化圏であったかというとそうは言い切れないと思うが、いずれにしても銅の使用があれば、その銅を掘り出すための銅山は重要な資源調達地となる。そこで別子であるが、これは別ではなく越氏だったと考えることはできないだろうか。もちろん拼音において別と越は全く違う発音であり、それを同一視するのは日本的発音でしか成り立たないことではある。しかしながら、もちろんそれはそれ以前の話でもありうるが、もし仮にとりわけ明治維新後に東山天皇の血を引く十五代目吉左衛門友純を当主として迎えた時に、越ではなく別の字を用いることが条件として挙げられる、などということがあったとしたら、元は別子ではなく越氏であった可能性も考えられるのではないか。

別から越へと変わった理由

そこで、なぜそのように変えるよう求められたか、ということであるが、どこまでが事実として採用できるかわからないし、安定した情報なのかも疑問が残るが、Wikipediaに基づいてその推測の議論を行ってみたい。情報源が情報源で、そしてそれに基づいた推測なので、その程度のつもりで読んでいただけたら幸いだ。別子銅山では維新後にフランス人のルイ・ラロックという人物を迎えて目論見書を作らせたとされる。そしてそれに先立って銅山が新政府に接収された時、それ以前の所属がどこだったのか、というのは定かではないようだ。伊予松山藩の預かりとも、土佐藩の預かりとも、あるいは幕府の川之江陣屋の管轄だともされ、結局川之江陣屋の管轄だったということで土佐藩が接収することになったようだ。これらの話が維新直後にまとまった話であるとは思えず、それこそ十五代を養子として迎える時にまとまったのではないかと考えられ、というのは、フランスが越と関わるとも言えるインドシナに進出しており、そしてそのフランスが幕府と繋がりがあったという話になっており、そしてフランスは蚕が病気で全滅した時に日本から蚕を買い付けた、という話にもなっている。個人的には養蚕というのは日本の国産技術であると考えており、それがその時期のフランスにあったとは到底考えられない。しかしながら、維新後に富岡製糸場をフランスの技術によって導入することで、製系の近代化が図られたという話にもなっている。これらのことは全体としておかしいのだが、おそらくかなり正統な歴史を紡いできたであろう、四国の特に別子銅山周辺の人々が、近代化の中で生き残るためにそれらの話を飲まざるを得ない、という状況になり、そこでフランス人ルイ・ラロック、そして幕府の管轄であったという話を飲んだ上で元禄四年という年を残し、ケンペルの話も怪しい、少なくとも自分たちの記憶にはないものだ、という目印にした、ということは考えられないだろうか。

住友

これらの、明治維新の重大な秘密に関わることを封じた、ということは、越もそうではあるが、それ以外にも、住友の業祖が蘇我理右衛門で『日本書紀』に関わるような蘇我姓とのつながりを持っていることも含めて、日本の歴史全体について、ある意味で託されたような形で、一番強い記憶である藤原純友にかけて住友という姓を保つことになっているのではないだろうか。

NonFictional、といいながら、かなり創作寄りに近い話になってしまいましたが、歴史にIfはなくともPossiblyはありうるのではないか、と感じてかなり冒険をしてしまいました。不快に思われる方がいらっしゃいましたら失礼いたしました。

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Emiko Romanov
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