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【世界の中の日本】下関戦争を巡る思惑

世界との関わりで、明治維新前の流れをもう少し詳しくみてゆきたい。兵庫開港要求について、薩摩や長州、そしてイギリス方向からみたが、今度は主として幕府とフランス方向から見てみたい。

最後の将軍徳川慶喜

幕末の幕府を見るのには、最後の征夷大将軍となった徳川慶喜という人物についてしっかりと見る必要がある。徳川慶喜は、水戸藩主斉昭の七男で、幼い頃から英明で知られたと言うが、江戸で生まれた正妻の子であるのにもかかわらず在府せずに水戸で過ごすという、幕府の制度を無視して育った子供であり、その点で、将軍どころか藩主にすらなる資格がなかったと言える。水戸で九年間過ごした後、尾張藩からの養子昌丸が当主となってわずか3ヶ月2歳で没した後の一橋家の養子となることになった、これは、末期養子どころか没後の再興であり、普通の大名家だったら全く認められない話である。そして、御三卿が紀州吉宗以来の将軍家の後嗣のための家であったことを考えると、そこに水戸から養子に入り、将軍となるというのは幾重にもおかしな話で、原則を破りに破って、まさに幕府を崩壊させるためだけに一橋家に入ったのだと言える。一橋慶喜にとって重要なのは、幕府や徳川将軍家などではなく、徹底して水戸藩であり、その柱となっている水戸史観的な考え方で、そしてそれが尊王攘夷の思想の核となっていた時に、開国の時代を迎え、いかにして水戸に帰せられる責任を幕府に転嫁して新たな時代を迎えるのか、という事であったと言える。

慶喜の置かれた国際的背景

それを後押しする国際的背景として何があったのかをみてみたい。世界的にも動乱の時代に、どの外国勢力と手を結ぶべきか、という選択の問題になったのだと言えるが、最初に国交を結んだアメリカは、万延の遣米使節の後の大統領選挙で奴隷制度廃止を主張する共和党のリンカーンが当選し、そのまま南北戦争に突入したので、日本にまでは目が向かない状態になっていた。一方で清では、その万延の遣米使節が品川に帰港する少し前に、アロー戦争の講和条約である北京条約が締結されたところであり、英仏ロという大国が清に不平等条約を押しつけている時期だった。それを主導していたのはおそらくフランスであろうと考えられ、つまりフランスは諸大国の力を背景にアジアでの植民地化を図る中心的な力となっていたのだと言える。

フランス

そのフランスは、ナポレオン3世が親政を行っており、外交政策については歴代外務大臣とは必ずしも意見の一致を見ておらず、どうも長きに亘って国務大臣と皇帝官房長官、そしてその後財務大臣を務めていたアチル・フルダの影響力が強かったように見受けられる。フルダは、財政を重視した人物であり、コストパフォーマンスの良くないヨーロッパ内部での戦争には消極的な一方で、利益の上がる植民地開発には積極的であったかもしれない。国務大臣を務めていた時にインドシナ進出やアロー戦争が活発化したのは彼の方針だったのではないか。尤も、表向きにはその頃に外務大臣を務め、その後国務大臣に代わったナポレオン一世の庶子であるアレクサンドル・ヴァレフスキが中心となったようだが、彼にそれをコントロールする能力があったようには見受けられない。また、1860年から67年まで海洋植民地大臣を務めたプロスパー・デ・シャセルー=ルーバーという人物がフランスの植民地主義を主導したようでもある。フルダはメキシコ介入やプロシア向け軍備には反対する一方で、アジアやアフリカについては特に明確な反対もしていないようで、財布を握って後ろで後押ししたのがフルダであったとは言えそう。

イギリス

一方でイギリスは、パーマストンが外務大臣をやっている間は非常に常識的な外交路線だったのだが、そのパーマストンが首相となり、外務大臣にパーマストンのライバル、ジョン・ラッセルが就任すると、急に挙動が怪しくなる。北京条約もそのジョン・ラッセル外相の下で交わされたものであり、日本に来た中でも、第1次東漸寺事件で被害に遭ったローレンス・オリファントは、ラッセルに直接依頼して日本へやってきた人物であった。すでに書いたとおり、第1次東漸寺事件は狂言であった可能性があり、ラッセルはオリファントに日本との間でトラブルを仕込んでくるよう密命を与えていた可能性がある。そのイギリスの初代公使であったオールコックは、原則を重視する常識的な外交官であり、慶喜の思うとおりに動くような相手ではなかった。そのオールコックは慶喜が政事総裁職になる少し前にロンドン万博への出展と遣欧使節を助けるためにイギリスに一時帰国していた。

山師の天国

外国公使の中で唯一まともな感覚を持っていたオールコックがいない間に、イギリスの関係者も随分おかしな感じになっていた。初代長崎領事を務めていたクリストファー・ホジソンは、フランスで無給の副領事をやって、それから日本に渡ってきたようで、長崎の次に59年に函館の領事となり、そこではフランス領事も兼ねていたという。1年ほどで幕府役人とトラブルになって役を離れ、65年にフランスで没したと伝わる。函館の話はまた別に見るが、とにかく、国という単位ではなく、冒険家がいかに一山当てるか、という、大航海時代の再現のようなことがアジアで起こっており、日本もその大きなターゲットになっていたことがわかる。そんな欲望渦巻く情勢で、良識派のオールコックがいない間に、欧米での政治情勢の影響も大きく受けながら、様々な国の様々な人物がうごめきだしたのだ。尚、イギリス本国は、いかにアメリカの南北戦争に巻き込まれないようにするか、というのが最重要テーマとなっており、アジア情勢にそこまで注意を払っている余裕はなかったと見受けられる。一方でフランスは、ナポレオン3世がメキシコに介入しており、南北戦争の混乱に乗じて、なるべく世界中をその混乱の渦に巻き込もうとしていたようだ。

島津久光の江戸入り

その中で島津久光の上洛から江戸入りという、通常では考えられないようなことが発生し、その提言による文久の改革で一橋慶喜が政事総裁職となり、一方で生麦事件が起きたのはその久光が帰国する最中のことだった。それを考えれば、生麦事件という非常識きわまりない事件も、ラッセルの騒ぎを起こせという密命の影響下で起こったとも考えられそう。一方で、久光の上洛自体、何らかの後ろ盾がなくてはなかなかできそうもなく、フランス、あるいはオランダの暗黙の後ろ盾があったのことだったのかも知れない。薩摩からは五代友厚が上海に何度も渡ったりもしているので、国際的な情報はある程度入っていたのではないだろうか。そして、フランス初代公使デュシェーヌ・ド・ベルクールの通訳も務めたジラール神父などのフランスの宣教師団が安政2年(1855)から数年間琉球で日本語を学んだ、という話があり、琉球にいたと言うことは、その時点で薩摩と何らかの関わりがあった可能性もある。島津久光が江戸から薩摩に戻ってくるのとほぼ入れ違いに、その琉球にいたルイ=テオドル・フューレ神父とベルナール・プティジャン神父が横浜に入っている。そしてそれを命じたジラール神父は、当時ベルクール公使の通訳を務めていたのだが、その時期に香港経由でフランスに帰国し、幕府のキリシタン禁制撤廃運動を展開した上で、1年ほどでまた戻ってきて、第2次下関戦争やその賠償交渉で通訳を務めている。つまり、島津久光に、キリシタン禁制撤廃について幕府に掛け合うのならば、ヨーロッパから援軍を連れてきても良い、というような示唆をした可能性はあるのかもしれない。その頃、ローマ教皇ピウス9世は、ナポレオン3世によるメキシコ帝国を祝福しながら、メキシコ皇帝マクシミリアン1世が信教の自由を表明するとそれに反対するといった、宗教的帝国主義への回帰の動きを見せており、ナポレオン3世下のフランスはその尖兵となっていた可能性もある。フランス宣教師団の動きはその観点から注目する必要がありそう。

薩英戦争の背景

とにかく、久光の薩摩への帰路で生麦事件が起き、攘夷決行が文久3年(1863)5月10日と定められ、その前日にイギリスに対して賠償金支払いがなされ、そして攘夷決行の日を以て長州がアメリカ商船を砲撃、次いでフランス通報艦、さらにはオランダ軍鑑に次々砲撃を行った。そしてフランスによる下関事件(第1次下関戦争)がおき、次いでイギリスによる薩英戦争が発生することになるのだ。こんな状況に置ける慶喜(が主犯かどうか確定する要素はないが)の戦略はおそらく一貫しており、夷を持って反幕府運動を制する、といったものだったように見受けられる。薩英戦争で幕府が賠償金を払った上でイギリスが薩摩を攻撃するという、余りに原則から外れた行動を解釈するに、おそらく幕府はイギリスとの交渉の中で、実際には薩摩討伐の褒賞として支払ったものの名目を生麦事件の賠償としたのではないかと考えられるのだ。ここで、薩摩を攻撃するという依頼が入ったことから、後に幕府は全国政権ではなく、連合政権の長に過ぎない、という解釈が生まれたことも考えられ、薩英戦争は、薩摩にとってよりも、幕府にとってより大きな負担となったと考えるべきかも知れない。イギリスは、金を受け取った上でそれを直接行うのは余りにリスクが大きいということで、フランスが先に正当な報復として長州を攻撃するその様子を見てから薩摩への対応を決めようとしたのかも知れない。結局長州は余りにあっけなくフランスに敗れたため、イギリスも薩摩を攻撃するという踏ん切りがついたのではないか。元々主導していたのがフランスと島津であったことを考えると、もう少し違う風景だったようにも感じられるが、いずれにせよ幕府はそこまでは知らなかっただろうから、イギリスを交渉相手と考えていたことだろう。

幕府を売ったのは誰か

攘夷を唱えながら、攘夷を実行したらその夷狄に金を払ってその実行犯を攻撃させる、という醜いことこの上ないやり方をとったのが、一橋慶喜、老中小笠原長行、そして若年寄酒井忠毗のラインであったと考えられる。小笠原長行は唐津藩の世嗣として、藩主を四代養子で回している間に幕政に関与し、自由な立場で幕政に干渉したのだと考えられる。当主でなく世嗣が老中となるというのも常識では考えられない話であり、唐津と言うことで外国情報も早いだろうから、そこでオランダ辺りとつながっていた可能性もある。敦賀藩主の酒井忠毗は、母が有馬純養の娘で大村純鎮の養女となって酒井家に入ったのだが、その両家はどちらも戦国時代、早い時期にキリシタンになったことで知られており、そんなことを使って西洋人との関係を作ったのだと考えられる。酒井はオールコックに担当として指名されたとされるが、カトリックとは関係の良くない国教会を奉じるイギリスがカトリックのキリシタン大名の話にそこまで反応するとは思えず、実際にはベルクール、というかその通訳であったジラール神父の指名を得たのではないかと考えられる。なお、大村純鎮の孫の純熈は、大名、しかも外様であるにもかかわらず長崎奉行という幕府の、旗本がつくべき役職に就いていた。酒井はこのあたりの人脈を用いながら、外国担当若年寄という立場を築いていたのだろう。老中小笠原長行は、第1次下関戦争の時期にイギリスから借りた2隻の汽船を含む艦隊を連れて大坂へ行き、そこから上洛を窺ったとされるが、実際には仏米連合艦隊の大将分として後詰めとして大坂まで出向いたのだ、というポーズだったのではないかと疑われる。そこにはいろいろなアリバイ工作があり、まず将軍家茂は主な老中や若年寄を連れて当時上洛中であった。そしてこの賠償金支払いは、慶喜の暗黙の了解の下、小笠原の独断で、攘夷決行前日に行われた。つまり、慶喜は支払いをして外国との和解を模索したのにもかかわらず、天皇とその下にあった将軍及び幕閣が攘夷に突っ走ったので、外国との争いが起きたのだ、というシナリオで、天皇と将軍に責任転嫁をして逃げ切るという事を画策したわけで、その点で、攘夷命令に従ったと称する長州ともども、天皇―将軍の権威を利用して自らを正当化し、権力の奪取を図ったのだと言えそうだ。そして、第1次下関戦争が終わるのを見計らったかのように小笠原は将軍を連れて江戸に戻っている。小笠原、酒井の二人は、江戸に戻ると職を解かれ、幕府の担当者が代わったところで薩英戦争が始まるのだ。ただ、将軍に老中や若年寄の解職の力があったとは思えず、慶喜と図った上での自発的な辞職ではないかと考えられる。

英仏の思惑

さて、この時のフランス公使は、初代のデュシェーヌ・ド・ベルクールであったが、アメリカ商船への攻撃があってから、主力船ではなく清で購入した船を長府沖に進め、攻撃を誘ったようにも見える。この船は、同じ年に中国揚子江を漢口まで遡っているとされ、それがこの砲撃の前なのか後なのかわからないが、随分慌ただしい日程であると感じる。本当にフランスの船だったのか、という事も疑ってしかるべきなのかも知れない。その後の薩英戦争の時には薩摩とイギリスとの間に賠償金交渉があったが、ここではそれもなくいきなり長州に攻撃を仕掛けているという事から、最初からいざこざを起こして幕府に賠償金請求をする、というのが既定路線であったようにも考えられる。あるいは、攘夷を行ったというアリバイづくりのための長州の自作自演という可能性も十分にある。長州もフランスも、幕府がどのように反応するのか、と言うのを確かめるために、戦いの情報だけを流した可能性もある。そして担当老中と若年寄が解職されるという反応を見て、イギリスは薩摩攻撃を決めたのかも知れない。元々薩摩はイギリスよりもフランスとのつながりの方が強く、一方、イギリスは長州から長州五傑という留学生を受け入れており、むしろ長州との関係の方が深かった。つまり、友好国の長州がフランスに攻撃されたことに対して、フランスの友好国である薩摩を攻撃した、と言うことだったのかも知れないのだ。それは、フランスは幕府の後ろ盾を得て長州を攻撃したのに、イギリスは金を受け取りながら攻撃もしないのか、という圧力が生じた結果なののかも知れない。だから、イギリス代理大使はともかくとして、イギリス艦隊自体の士気はそれほど高くなかったのかも知れない。このように、様々なシナリオ、思惑が乱れ飛んでいたので、幕末の情勢というのはよくわからない混沌のように見えるのだろう。

ナポレオン東洋帝国?

そして、ここで公使がベルクールからレオン・ロッシュに代わった。これは非常にテクニカルで、第1次下関戦争の一月半前にロッシュがフランス公使に任命され、そしておそらくそれがベルクールの所に伝わった頃にその戦争が起きたことになるのだ。つまり、船が本当にフランスのものだったかを含め、いざとなれば、フランスとの公的な関係は一切ない単なる私闘として処理できるようなっていたことになる。そして、これが直接関わるのかはわからないが、その辞令発令から第1次下関戦争が起こるまでの間に国務大臣のヴァレフスキが代わっている。しかしながら、公式書類でロッシュに対してナポレオン3世の信任状が出ているのはヴァレフスキが国務大臣を辞めた後の63年10月23日だったということで、首相のいなかった第二帝政フランスで、信任状は大統領から出るとしても、公使の任命権者が誰だったのかにも依るが、主席大臣であろう国務大臣がそのタイミングで変わっていると言うことの意味は考えるべきなのだろう。ナポレオン帝国の東洋征服シナリオとして、フランスの公式な国策とは別に話を始め、その第一歩が第1次下関戦争であった可能性もあるのだ。薩英戦争もそのシナリオにのっての話であったかもしれず、その意味で薩摩がイギリスを退けたことでナポレオン東洋帝国の野望は一旦途絶えたことになる。

舞台回しはだれか?

結局ロッシュが来日したのは翌64年4月27日であり、着任後すぐに第2次下関戦争の準備に取りかかっていることを見ると、本国でいろいろ調整した後に満を持して再度挑戦ということだったのだろう。ロッシュは通訳としてジラール神父と共に琉球で日本語を学んだというメルメ・カションを用いたというが、第2次下関戦争やその賠償交渉ではジラール神父が通訳を務めたともされ、更にそのジラールは横浜天主堂の火災で焼死という不審な死にかたをしているので、実はこれは同一人物で、変名で活動していた可能性もありそうだ。つまり、この幕末の外国勢の怪しい動きの舞台回しをしていたのは、メルメ・カションことジラール神父で、その日本側のカウンターパートはジラールから指名を受けたと考えられる酒井忠毗であった可能性がありそう。

下関戦争とイギリス外交

第2次下関戦争自体は、イギリス公使のオールコックが主導したとされる。それはどういうことかと考えると、オールコックの帰国中に受け取った生麦事件と第一次東漸寺事件の賠償が、実際には幕府の代わりに反幕勢力を討つということへの褒賞であったとすれば、薩英戦争で負けている以上、その義理を果たす必要があった、という事がありそう。第1次下関戦争がフランスと長州による狂言だったという所までは想像できなくとも、長州による攘夷決行が条約違反であることは明かであり、それを討つことは国際法上も、幕府に対する義理を果たすという意味でも問題にはならない、と踏んだのではないか。実際、幕府は第1次下関戦争後に長州に対して詰問の使節を送ったが、使者は殺され、船は奪われるという事件が起きており、その後に幕府は直接関わらないが八月十八日の政変が起きて長州は都から追われていた。そして、イギリスが長州からの留学生を受け入れているという関係からも、その長州がそのような国際法違反をしていることは見過ごせなかったのであろう。オールコックは長州攻撃の問題について本国に伺いを立てているが、ジョン・ラッセル率いる外務省は、外国との戦争につながりかねない軍事行動は認めない、などといい、後に開戦の禁止令も出したようだ。それをいうのならば、勝手に薩英戦争を行った代理領事のジョン・ニールや艦隊司令官のキューパー中将が処分されなければ全く筋が通らないのだが、第2次下関戦争を認めてしまえば、イギリス海軍が傭兵として薩英戦争を行ったという事が明るみに出かねない、という危惧もあったのだろう。東漸寺事件にしろ、生麦事件にしろ、ラッセル系の陰謀によって人為的に起こされた可能性が高いのにもかかわらず、国家間戦争に至る可能性がきわめて低かったこの攻撃を認めないなどというのは恥知らずも良いところであろう。

下関戦争へのフランスの陰謀

攘夷運動が過激化する中で、幕府は横浜を鎖港することを決め、文久3年12月29日から元治元年7月22日にかけて横浜鎖港談判使節団を送り出した。これは、ロッシュが横浜鎖港に前向きな態度を示したことから送られたのだと考えられるが、それ自体ロッシュの罠であっただろうことは、パリで結ばれたパリ約定の中身を見れば明かであった。その内容は、長州藩によるフランス船砲撃に対する賠償支払い(幕府は10万ドル、長州藩は4万ドル)、フランス船の下関海峡自由航行の保証、輸入品の関税率低減(一部の品目は無税)、という、横浜鎖港の話とは全く関係のない一方的なものであり、無知にしてもよくもまあこんな約定にサインをして帰ってこられたものだというものであった。当然そんな内容を批准できるはずもなく、帰国後すぐに幕府は批准を断ったが、結局それがきっかけとなって四カ国艦隊の下関攻撃に至ることとなった。オールコックは、実際の攻撃にまで至らないように解決しようとしていたのだと考えられ、長州にあらゆる手段を尽くして警告したが、それも及ばず、オールコックの手を離れたところで戦争に至ることになったのだった。そしてそれを理由としてその年の年末には公使を解任されることになったのだった。

下関戦争賠償金と技術導入

こうしてロッシュはイギリスを反幕府の軸に据えることで、自らは幕府側に寄せる、という路線を確保したのではないかと考えられる。つまり、オールコックの時代には幕府との関係が盤石だったイギリスを薩摩の側に寄せた上で、そのイギリスと関係の良かった長州との戦いの主力とすることで、倒幕の流れを国際的文脈の中に組み込んだのだとも言えそうだ。そんなことで結局事実上フランスが主導して行われた第2次下関戦争は3日で終了し、長州は講和条約を結ぶことになった。艦隊にオールコックは参加していなかったであろうと思われ、交渉は、ジラールを通訳として、フランスのペースで行われたのだと考えられる。結局賠償金は300万ドルに跳ね上がり、しかも知れは幕府が支払うということになった。おそらくそれが後に小栗の埋蔵金ともされるもので、まさか直接300万ドル寄こせ、といって話になるはずもないので、300万ドルで製鉄所や造船所の建設を行う、という話になったのではないかと考えられる。1864年12月8日(元治元年11月10日)、ロッシュは幕府からの製鉄所と造船所の建設斡旋を依頼されたとされるが、このあたり、パリに使節を送った辺りから一橋慶喜との間で合意ができていたのではないかと疑われる。つまり、幕府の金で近代化を進めたいが、直接行えば摩擦が大きいので、長州を攻撃してその力を見せつけた上で、技術移転をさせる、という事だと考えられるが、技術移転の基本シナリオ自体はおそらく当時老中で二番目の地位にいた長岡藩主牧野忠恭が考え、一橋慶喜はそれをフランスに売りさばく、というところを決めたのだろう。文久の遣欧使節でロンドン万博の情報が入っていれば、技術的に最先端なのがイギリスであるという理解はされていたはずであり、それをフランスからの技術導入に切り替えるなどというのはまともな感覚ならばありえない。後の北越戦争で長岡藩がアームストロング砲をはじめとしたイギリスやアメリカの武器で武装したことを考えても、牧野忠恭がイギリスからの技術導入を考えていたことは明かで、にもかかわらずフランス路線での技術導入が行われたという所に、一橋慶喜とフランスとの間の深い闇が感じられる。慶喜は、ロッシュとの間で、キックバックも含め、何らかの合意があってパリへの使節派遣から第2次下関戦争、そしてフランスからの技術導入、ということになったのであろう。これは、その後の憲法制定などにも関わって日本の近代化への道のりを大きく規定することになったと言える。オールコックは同じ年の12月24日に帰国することになり、そこでイギリスからの技術導入の可能性は途絶えることになった。

予算未定の技術導入

年が明けると、ロッシュと幕府との間で話がどんどん進み出した。まず、横須賀製鉄所建設が、1865年1月24日に約定書提出され、次いで横浜仏語伝習所が設立されて、1865年4月1日に開校した。この後、5月6日に勝手掛老中であった牧野忠恭が老中を辞任していることから、予算が大きな問題となっていたことがわかる。そして、パリ万国博覧会への参加推薦もおこない、1865年8月15日に幕府によって承諾された。これは、600万ドルの国債発行含みの話であったようなので、承認時点から資金調達含みの話だったのかも知れない。日本側の事情はまた別途見るとして、そこまで進んだ段階で慶応元年9月13日(1865年11月1日)、英仏蘭3カ国8隻の艦隊は、イギリス公使パークス、フランス公使レオン・ロッシュ、オランダ公使ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックおよびアメリカ代理公使アントン・ポートマンを乗せて横浜を出港し、9月16日(11月4日)には兵庫港に到着し、兵庫開港について上洛中の幕府首脳と交渉を開始した。これもまた一橋慶喜の入れ知恵であった可能性が高く、いかにして自らは責任をとらずに、幕府と朝廷に責任をなすりつけながら300万ドルの支出を認めさせるか、という事だったと思われる。老中阿部正外および松前崇広が、9月23日(11月11日)から四カ国の公使との交渉を始め、四カ国公使が朝廷との直接交渉を主張すると、2日後やむをえず無勅許で開港を許すことに決めた。翌日、大坂城に参着した一橋慶喜は、無勅許における条約調印の不可を主張し、朝廷の命令で2大老を改易し、幕府は2人を老中から解任した。そしてその翌日65年11月15日に横浜製鉄所の鍬入れ式が行われたのだ。結局10月7日(11月24日)に幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、四カ国に対して回答した。これによって関税率の改定も行われ、幕府が下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことも確認されたので、勅許が出たから金を払え、と勘定奉行の小栗らに認めさせる材料としたのだろう。そして、天皇が批准に同意したという話は幕府が勝手にいっただけなので、それが本当だったかは定かではない。結局兵庫の開港の勅許が出るのは孝明天皇が薨去された後のことであり、孝明天皇が脅されたから、といってほいほい勅許を出すようには到底思えない。つまり、一橋慶喜は、勅許すらも偽で四カ国に対して伝えた可能性があるのだ。

また維新までたどり着けなかったが、一旦ここできりとしたい。


Photo from Wikipedia 下関戦争

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Emiko Romanov
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