朝鮮語の性質から読み解く朝鮮半島近現代史
言語は、とりわけ近代化の過程において近代的な語彙が多く新規に加わるということで、その様子を検討すると、その言語の近代化過程が如何なる様相であったのか、ということを推定することができる。非常に特徴的な日本の例を見てみると、西洋からの外来語を、同じく外来語である漢語に翻訳し、読みを和音で行うことで日本語化するという、日本における近代というものの咀嚼過程が非常によく表れていると言える。一方中国における初期近代語彙は、日本からの輸入語彙が目立ち、つまりアジアにおける初期近代化は日本による漢語翻訳が先行し、それを中国が追いかけるという形をとっていたことがわかる。それは、朝鮮やベトナムという漢字文化圏の国々が独自文字によって近代化を行うという路線をとらなければ、やはり同じような経路を辿った可能性もあるが、ベトナムはフランスの植民地支配によって脱漢語化が図られたので、そのようにはならなかった。では朝鮮はどうだったのだろうか?
まずはその概要をWikipediaから追ってみる。
ということで、南北朝鮮では、ソウル特別市の方言がベースとなった同一言語であるが、微妙な違いが存在するという。
語族という考え方をどこまで採用するかにもよるが、膠着語という点で漢語よりも日本語に近いとは言えるのだろう。
標準語的な同一言語の考え方自体が近代的、いわば国民国家の成立と切っても切れない関係にあるということが言え、その中で五族協和の理念の下多民族国家が構想された満州国において独立の民族とされたことをどう考えるのか、という問題があり、私はこの解釈についてかなり独自の立場をとるので、それは議論とならざるを得ないだろう。
標準語を定めたのは日本の朝鮮総督府で、普通学校における標準語の規範を永く首都とされてきた京城府(現ソウル特別市)の中流階級が使用する言語とした、となっている。その京城府だが、
京城はともかく、なぜ漢陽とか漢城とか、漢の名をつけるのかが引っ掛かる。
さて、語彙であるが、それぞれの階層の語が語彙全体の中で占める割合を日本語と比べた場合、固有語と外来語は割合がやや少なく、漢字語は割合がやや高い、とあり、近代以降は日本留学生が和製漢語を取り入れ始め、和製漢語に翻訳された西洋の近代用語を中心に漢字表記語の借用が行われた、ともあるので、日本経由での漢語を通じた近代化過程であったことがわかる。外来語については、南では英語、北ではロシア語の影響が強いとされ、 中国の朝鮮族によって話されている中国朝鮮語は中国語の強い影響を受けているとなっている。
ここで気になるのは、近代化過程が日本の影響下で行われたのに対して、中国の朝鮮族によって話されている中国朝鮮語は中国語の強い影響を受けているということだ。清の時代には、朝鮮に接する東北三省には、満州族ではないいわゆる中国人、漢人の立ち入りが制限されており、中国朝鮮語に中国語の影響が入り込む可能性はかなり低かった。そうなると、中国の影響は明の時代にまで遡る必要が出てきてしまう。一方で朝鮮語自体の漢字語は古典中国語系語彙が多くを占めるということで、ハングルを発明したとされながら結局公文書ではそれを使わなかった李氏朝鮮の方が中国の影響は高そうにも感じる。しかしながら、実際には中国側である中国朝鮮語において中国語の影響が強いということで、そうなると、単純に考えれば第二次世界大戦後に中華人民共和国が成立し、その下で中国語の影響を受けるようになったということになりそう。
この問題は一旦ここまでにするとして、近代での朝鮮における言語政策を見てみたい。
とあり、日清戦争の最中、日本軍がすでに平壌を落とし、鴨緑江を渡って満州入りした後に、公文書へのハングル採用を決めている。そして、朝鮮語の正書法の整備事業も朝鮮総督府に引き継がれその下で諺文の綴字、正書法が整えられて行ったことがわかる。その間、明治44年に勅令第二百二十九号で朝鮮教育令が出され、国語による教育が定められている。
この国語は一般的には日本語であると考えられているが、総督府のこのようなハングル重視の政策の下で、日本語での教育を行うというのはどうにもすっきりしない。これには様々な要素を考える必要があるが、仮に日本語での教育だったとしたら、それは近代化に伴う語彙が朝鮮語に不足していたので、近代化の加速のために日本語を用いた、ということになるのだろうか。でも、それならば現在の朝鮮語の中に日本語経由の近代漢語が多く含まれることの説明がつかないので、私は国語とは朝鮮語のことだったのではないかと直観的に感じている。
さて、では様々な要素を考えるベースとなる大胆仮説を、先に書いた独自の立場に基づいて、提示したい。細かい議論はかなり丁寧に緻密に組み立てる必要があるのだろうが、それはかなり大変なので、ざっくりの荒っぽい話だけとなり、それは当然の如くかなりの批判の対象になりうるのだろうが、その批判に丁寧に答えられるかどうかの自信もないままに、とにかく一方的に自己の議論だけを提示し、出来うることならばそこから議論が膨らむことがあれば、と期待しながら書いてみたい。
先に漢陽と漢城という、漢の名のつく地名について触れたが、これは基本的には漢江に由来するものだという。しかし、そうだとしてもなぜ漢江が韓江ではなく漢江なのかという部分はやはり納得がいかない。これは、私は漢民族がそこを開いたからではないかと想像する。漢城と名を変えたというには、やはりそこに城ができたのでは、と考えざるを得ない。一般的な説明では、太祖が17キロにわたる城壁を建てたということなのだろうが、私は興宣大院君が再建したとされる景福宮のことではないかと考える。それは1865年に再建され、68年に住居と政務を移したとされるが、その間1866年にフランスとの間に江華島事件が起きている。一方清では、1865年に捻軍との戦いのために欽差将軍が曽国藩から淮軍を率いたとされる李鴻章に変わっている。私には捻軍と淮軍が重なるようにも見え、ここで李鴻章が何らかの形で、飢饉等でのあぶれ者を多く含んでいたと思われる太平天国軍に近い捻軍を指揮下に置いて淮軍とし、それを宥めるためと称して朝鮮半島に進出し、漢江流域に植民をしたのではないだろうか。江華島事件とは、太平天国も関わるだろうキリスト教徒との戦いであった可能性もあるのではないか。いずれにしても、その平定の過程で景福宮が建設され、それによって漢陽から漢城に名前を変えたとは考えられないか。その後李鴻章率いる北洋軍閥はこの朝鮮を拠点にして勢力を養い、清はその取り扱いに困ってしまって、結局それが日清戦争に至るということではないだろうか。
そう考えると、李氏朝鮮とは李鴻章支配下の朝鮮のことという解釈もでき、そしてそれをめぐって清と争ったというのは、清が李鴻章支配を押し留めることができないのを日本が独立させようとしたとも考えられるのではないか。朝鮮語とは、李鴻章が現地の言葉の漢語化を進めようとした結果としてできたもので、中国朝鮮語にそれが最も色濃く残されていると考えることもできるのかもしれない。日本は、そのような中国化路線から朝鮮独立の方向に持ってゆこうとし、それが例えば漢城から京城と町の名をより誇りの持てるものに変えようとしたのではないか。
結局第二次世界大戦の結果、その路線が悪意の解釈に晒され、そこから抜け出せなくなってしまっているのだとも考えられそう。自分たちの解釈自体もその悪意の方向に自己洗脳してしまっていると言えるのかもしれない。言語というものをもう少しそのまま先入観のない形で見てゆけば、そのような自己洗脳も解けるようになるかもしれない。