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【Lonely Wikipedia】プロイセンと普仏戦争

同じ頃統一がなされたドイツの中心となったプロイセンについてみてゆきたい。

プロイセンの成立など、細かい話は省くが、プロイセンという国が歴史に名前を残すのは、それが歴史上初めてのプロテスタント国家であったということだと言える。

1525年、ホーエンツォレルン家分家のドイツ騎士団総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(アルブレヒト (プロイセン公))が、ドイツ騎士団はローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つであるにもかかわらず、あろう事か自らルター派に改宗するという暴挙に出たのだ。そして、ルターの助言を受けたとして、ドイツ騎士団領を公国とし、自らがポーランド王国支配下のプロイセン公となるという、何とも手前勝手な行動をとったのだ。カトリック教会からカトリック国であるポーランドにドイツ騎士団領を売り捌き、自らがそこの地主として収まったのだ。

これは、プロイセン同盟というプロイセン領内にある都市連合が、商売上で対立関係となったドイツ騎士団を追い出し、ポーランド王国の下に入ることでより大きな自由を得たいという欲をすくい上げる形でなされた。プロイセン同盟に参加していた諸都市は、ハンザ同盟に加盟することで、一体となった商売のネットワークを形成していた。ハンザ同盟は、中心となっていたリューベックをはじめとして、帝国自由都市、つまり、帝国直轄となることで大きな自由を得ていた。神聖ローマ帝国の基本的な価値観はカトリックであり、取引のベースもそれによってなされていたと言える。それが、ポーランド領となった西プロイセンではカトリックながら神聖ローマ帝国ではないポーランド王国の下での自由都市、さらにはプロイセン公国となった東プロイセンではカトリックのポーランド王国を宗主国と仰ぐプロテスタントのプロイセン公国の下での自由都市となることになり、ハンザ同盟としての統一感を失うことになった。取引ルールの統合性を確保するためか、現在ラトビアの首都となっているリガでは、プロテスタントに改宗しながら帝国自由都市となっていたようだ。いずれにしても、このドイツ騎士団領の解体とプロテスタントの浸透が、中世のバルト海や北海交易の繁栄を支えたハンザ同盟を衰退に向かわせることになり、その先に待っていたのは血みどろの宗教戦争であった。

その後、プロイセン公はブランデンブルク選帝侯が兼ねるようになり、ブランデンブルク=プロイセンの同君連合となった。そのブランデンブルク選帝侯との同君連合の初代ヨーハン・ジギスムントは、三十年戦争の前哨戦とも言えるユーリヒ=クレーフェ継承戦争で、最初はプロテスタントとしてカトリックと戦ったが、後に仲間割れを起こし、カルヴァン派に改宗して更に戦い続ける、ということをした。ここから、領土拡張のためなら節操も何もあったものではなく、宗教ですらもその道具に過ぎない、と言う徹底した現実主義が、代々のプロイセン公に受け継がれてゆくことになる。

1618年から1648年までの三十年戦争において、ブランデンブルク選帝侯が3度も陣営を変えたため、ブランデンブルクはプロテスタントとカトリック双方の軍に蹂躙されることになり、ベルリンなどの主要都市が廃墟と化し、復旧には数十年もかかったという。にもかかわらず、三十年戦争終了後の1648年のヴェストファーレン条約ではブランデンブルク=プロイセンは領土を広げ、更に1653年には三十年戦争の間に断絶したポンメルン公国をスウェーデンと分割することを定めたシュテッティン条約によって東ポンメルンを手に入れて、バルト海へのアクセスを得た。戦でどれだけ被害を受けようとも、手に入れるものは手に入れる、という冷徹なリアリズムがここに現れている。
ブランデンブルク=プロイセンは、三十年戦争によって荒廃したはずなのに、増税によって軍備拡張を行った。しかし、スウェーデンがポーランド・リトアニア共和国に侵攻して北方戦争が勃発すると、ケー二ヒスベルク条約でスウェーデンと同盟、とはいうものの、プロイセン公国とエルムラントをスウェーデンの封土としてスウェーデン王カール10世グスタフから改めて授けられたということで、ポーランドからスウェーデンに節操もなく乗り換えたことになる。高く売れれば、売り先はどこでも良い、と言うことなのだろう。更に、戦況がスウェーデンに不利になると反スウェーデンに乗り換え、完全独立を確保した。軍拡が功を奏したのか、策謀がそうだったのか。いずれにしても、戦争の度に領土を拡張してゆく、というのはブランデンブルク=プロイセンの建国以来の特性であったと言える。

1672年に仏蘭戦争が勃発すると、ここでもまた両軍を行ったり来たりし、更にスウェーデンとも戦い始めた。1685年10月29日、フリードリヒ・ヴィルヘルムはポツダム勅令を発し、フォンテーヌブローの勅令によってフランスから流入したユグノー難民に避難所を与えた。この勅令によってブランデンブルクには2万の難民が移住し、そのうち5千はベルリンに住むようになったと言う。ユグノーはプロテスタント過激派のカルヴァン派であり、これによって君主の信仰と国民の信仰が近づくことになった。

1700年、フリードリヒ3世はスペイン継承戦争でハプスブルク家に味方することを約束し、その代わりに神聖ローマ皇帝レオポルト1世から王の称号を許され。「プロイセンの王」となった。
次いで、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の時代となると、スウェーデンとの大北方戦争で更に領土を拡張した。そして、ユグノーの迫害に際して、それを受け入れたために、ユグノーの人口がさらに増えた。
「大王」フリードリヒ2世は、王立銀行(後のプロイセン銀行)を創設して金融の近代化に努めた。また、軍隊をさらに増強し、豊かなシュレージエンに侵攻、オーストリア継承戦争と七年戦争という2度の苦しい戦いを耐え抜き、1763年のフベルトゥスブルク条約でシュレージエンの領有が確定する。1772年にポーランド分割により西プロイセン、エルムラント、ネッツェを獲得し、大王の治世の間にプロイセン王国の領土と人口は約2倍に、常備軍は22万になった。プロイセン王はもはや誰はばかることなく「プロイセン国王」(König von Preußen)を名乗ることができた。またも、戦争によってその力を拡張したのだった。
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代も、ユグノーらの投資がきっかけとなった1792年と1795年の2度のポーランド分割によって、ダンツィヒ、トルンおよび新東プロイセンと南プロイセンもその版図に加えた。
そこまで破竹の勢いで領土を広げてきたプロイセンだったが、ナポレオン戦争ではティルジット条約によってエルベ川以西の領土を全て失った。しかし、1812年、ナポレオンのロシア遠征軍で最左翼に参加していたプロイセン軍であったが、敗戦が決まったとたんにロシア軍と協定し寝返った。そして対仏大同盟に参加して、ナポレオンを退位に追い込む。ブリュッヘル将軍は1815年のワーテルローの戦いで復帰したナポレオンを破り、同年のウィーン会議でプロイセンは、かつてポーランド分割で獲得した領土の一部を事実上ロシアに譲ることになったものの、ティルジット条約以前の領土に加えてザクセン王国の北半分、ヴェストファーレン、ラインラントを獲得し、人口は1,000万に達した。同年にはドイツ連邦にも加盟し、盟主であるオーストリア帝国とその勢力を二分した。

ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で1815年9月26日にロシア、オーストリア、プロイセン間で神聖同盟が結成された。これによって、自由主義的な空気は抑圧され、権威主義が大陸を覆うようになった。

それに対して1848年革命が起きたのだと言えそう。3月にはベルリンで3月革命が発生した。市民軍と国王軍の衝突が発生する中、国王は自由主義者と妥協する道を選び、軍をベルリンから退去させてルドルフ・カンプハウゼンを首相、ダーフィト・ハンゼマンを蔵相とする初の自由主義政府を誕生させた。しかし、国王が終始自由主義に対して否定的だったことには変わりはなく、6月14日のベルリン兵器庫襲撃任をとってカンプハウゼンが辞任した後、国王は11月2日にブランデンブルク反動内閣を成立させ、11月14日にヴランゲル軍にプロイセン国民議会を解散させ、12月5日に国王大権を温存する欽定憲法を発布し、1849年5月30日に保守派に有利な三級選挙法を制定したのだった。
1860年にヴィルヘルム1世が即位すると、ビスマルクが宰相となり「鉄血政策」を唱えた。1864年に第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争によってシュレスヴィヒおよびホルシュタイン公国を獲得した。

1866年に普墺戦争が起きる。これは、ドイツ統一を巡っての主導権争いで、小ドイツ主義をとるプロイセンと、中欧帝国を模索するオーストリアとの対立がベースにあり、そこに上に挙げたシュレスヴィヒおよびホルシュタイン公国の問題が絡んだ。そこは共同管理の約束だったのが、プロイセンがオーストリア管理地域に介入することで、ドイツ連邦によるプロイセンの討伐が決まったのだった。
ドイツ連邦が脱退したプロイセンに宣戦するという形で開始されたが、その後ドイツ連邦内にもプロイセン側につく領邦が相次ぎ、連邦を二分しての統一主導権争いとなった。ケーニヒグレーツの戦いでプロイセン軍がオーストリア軍に完勝し、戦争は急速に終結した。1866年8月23日にプラハ条約が締結され、プロイセンはオーストリアに対して領土を要求せず、賠償金も2000万ターラーしか要求しなかったが、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国全域とハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国、ナッサウ公国、フランクフルト自由市を領有してドイツ東西のプロイセン領の統合を達成し、オーストリアを統一ドイツから排除した。

これによって、プロイセン主導のドイツ統一に道が開かれたが、その為にプロイセンはドイツナショナリズムを高める必要があった。その為に、共通の敵としてフランスを設定したのだ。そこでドイツは策略を巡らせる。スペインの1868革命の結果空位となっていたスペイン王にプロイセン国王の親戚である、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯家のレオポルトが推挙された。フランスはこれに反発し、推挙は撤回されたが、フランスはそれを明文化させようとし、プロイセン国王ヴィルヘルム1世に大使を派遣した。ウィルヘルム1世はこれを非礼であるとして拒絶した。ビスマルクはそれを誇張して、世界の報道機関に向けて、事もあろうに7月14日のフランス革命記念日に発表した。それによってフランス世論は沸騰し、ナポレオン3世は翌15日に動員令を発令、19日にプロイセンに対して宣戦を布告し、戦争が始まった。初動はフランスの方が早かったが、戦いが始まるとすぐにプロイセンが優位に立ち、セダンの戦いでナポレオン3世が捕虜となるという事態に陥ってしまった。それによってフランスでは無血クーデターが起き、第二帝政が打倒され、共和国が宣言された。それでもフランスは降伏せずに、パリ攻囲戦となった。1871年になると、休戦が模索され、2月に休戦が成立した。1871年2月に仮の講和条約がヴェルサイユで結ばれ、1871年5月10日のフランクフルト条約で正式に調印された。これによりフランスは東部のドイツ系住民居住地域であるアルザス=ロレーヌ地方3県を失い(1919年までドイツ帝国直轄領エルザス=ロートリンゲン州)、50億フランの賠償金の支払いを義務付けられた。
普仏戦争の後、列強の一つ、統一ドイツ帝国が誕生することになる。普仏戦争の最中の1871年1月18日、ヴィルヘルム1世は初代ドイツ皇帝となっていた。1871年、4月16日にビスマルク憲法が制定され、北ドイツ連邦の構成国と他4つの国が署名し、5月4日に発効した。戦後の国際外交はビスマルクの思惑通り進み、1873年、ドイツ帝国はロシア、オーストリア両帝国と三帝同盟を結ぶなど、フランスの外交的孤立化が進んだ。
ちょっと話ができすぎなようにも感じるが、こうしてドイツは統一され、ドイツ帝国が成立したのだった。

Photo from Wikipedia 1870s

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