帰納的社会論理学の必要性
社会が論理で動いているのは、近似的にはそうなのだろう。しかし、その論理の流れ方は、社会的慣習という前提に基づいたものであり、その前提の中には、きちんと定義されず、暗黙のうちに前提とされているものが多く含まれている。きちんと定義された前提よりも、暗黙の前提の方が優先されれば、新しい考えは生まれずに、全てが過去からの定義不能な雰囲気から派生したものとされ、個は社会に圧迫され、従属させられる。それは、多様な前提からなっている社会を、普遍的人間理性のような包括的な前提に基づいているものだ、と想定する、「近代進歩主義」のようなものの限界を指し示しているものだと考えられる。そこで、いかにして多様な前提と、前提に基づいた社会の論理的進歩というものが可能なのかを考えてみたい。
進歩の主観性
まず最初に考えなければならないのは、そもそも進歩というもの自体、非常に主観的なものであり、完全に普遍的な進歩などというものはあり得ない、ということだろう。典型的には、一般的に良いものだと考えられる、社会の電化、デジタル化、自動化、といったものや、それに対する環境主義的なものについて、完全に全人類が一致するような前提を打ち立てて進めることはまず不可能だ、ということがある。そこで、伝統的には、宗教のようなものによって基本的な価値観をそろえた上で社会運営がなされてきた。しかしながら、宗教、特に一神教的なものの中には、異教徒に対する不寛容、つまり前提が異なるものを排除するというようなことが正当化されることがあり、それはどの宗教についても一定程度あるものであると言える。
「普遍的」価値の広がり
昔ならば、郷に入れば郷に従え、ということで、現地の価値観に外部者が合わせる、というのが交流において常識的なものであったのだが、特に西欧における啓蒙主義以降、それと並行するように広まったグローバリゼーション的なものの萌芽と共に、西欧的普遍主義のようなものを押し付けながら世界の交流が広がる、ということになってきた。とは言っても、では西欧的普遍主義とは何なのだ、と言われても、それ自体普遍化することはできず、国によって文化はもちろん、法制度すらも異なっているのに、それをグローバルに拡張する、ということにかなり無理があることが明らかになっている。そんな中で、ルール作りの先導、主導権争いのようなものが激しくなっているとも言えるが、それは本当に望ましい方向なのだろうか。
近代化における価値観の争奪戦
そこで、現代社会は、多くの場合、これを資本主義、民主主義、あるいは権力主義、といった何らかの統一ルールを作り、それに従って何らかの形で多様な前提を一般化し、それによって論理的に社会を運営しようとしている。そして、資本主義ならば、前提を揃えてヨーイドンで競争し利益でその結果が示されることになり、民主主義ならば多様な前提を包括したパッケージについて一番人気を集めたものを社会的前提として一定期間それに従って運営し選挙でその結果が示されることになり、権力主義ならばそれぞれ異なった前提を持ったものがゴリゴリの力比べをして勝ったものの前提を押し付けるという形になる。いずれの場合も、どこかで誰かの前提が犠牲になっており、それはそれ自体普遍的価値などというものが存在しないことを示し、つまり近代化自体がすなわち価値観の争奪戦でしかないことをることを意味している。
「論理的社会」の演繹的手法
これは、論理の社会への適用が、演繹的手法によっているためではないかと思われる。つまり、まず前提を固め、そこから先、特に競争によって論理を次々積み上げてゆく、という形で社会が動くので、前提の段階で弾かれたら、その先その論理構造の中に入り込むことはまず不可能となり、論理に従属せざるを得ない、ということになる、ということだ。それは、最初の段階で、どうでも良さそうな前提に同意しないまでも拒否しなければ、否応なくその前提から導き出される論理に巻き込まれてゆくことになることも意味する。そういった「論理的社会」の生み出す弊害は、個々人に非常に大きな負担を強いるものになっており、それは、特に論理の下層に位置付けられる人々にとっては、社会のもたらすメリットを大きく凌駕するものになりつつあると言えそう。
普遍的理性に基づく社会の幻想
これは、論理というものを社会に適用するやり方に問題があるのだと言えそう。ここで、個というものをいかに定義すべきなのかを考えてみたい。果たして人は西欧哲学が想定するような普遍的理性を持って合理的に行動するものなのだろうか。まず、すでに上に述べたとおり、全ての人に適用しうる普遍的理性などというのは、あったとしても、人を殺してはならない、くらいのことであり、そして仮にそれがあったとしても、それだけを前提にして社会を作る、などというのは不可能であると言える。つまり、普遍的理性に基づく前提の上に立つ社会、という考え方自体、明らかに幻想なのだと言える。一方で、人は常に合理的に行動するわけでも、あるいはそうしなければならないわけでもない。単に合理的に行動した方が目的が早く達成されるというだけのことで、それすらも絶対的価値であると言えるのかはわからないし、しかも、複数の目的を追求している時に、単一の合理性を想定することはかなり難しい。つまり、論理社会において論理を適用すべき人間像を論理的に把握する、ということ自体少なくとも現状で成功しているとは言い難いのだ。
普遍的価値の多様性
ここで、これは個人的な想定だが、理性的人間像というものをどのように想定すべきかを考えてみたい。新カント学派的(?この辺り、カントを完全に理解しているとは言い難いので、間違っているのかもしれません)には、理性的人間は真・善・美を追求するものだとされ、その価値観は普遍化できるものだと想定されてる。しかしながら、本当にその真・善・美の価値観は普遍化できるものなのだろうか。私がnoteでずっととり組んでいるように、歴史においてその真実を見極めるのは非常に難しい。それぞれの人にそれぞれの立場があり、だからこそ絶対的普遍価値に近いと思われる、人を殺さない、ということを平気で犯すような戦争というものが繰り返し起きるわけであり、つまり、人が命懸けで守らないといけないと考えている真実というのは、人によってそれぞれ違うのだ、ということをまず考えるべきなのだろう。ということは、なぜそれが真実だと考えるのか、という正しさ、善悪の基準、前提、あるいはその見え方も人によって異なることを意味する。そしてその表現方法、あるいはその表現に対する評価基準である美しさについての考え方も、やはり人によって異なるのだと言える。つまり、普遍的価値は、普遍的に人によって異なる、というのが実際のところなのだと言えそうだ。
多様な普遍的人間モデル
ではその普遍的に異なる普遍的人間像は一体どのように描かれうるのか。このように想定できないだろうか。「今はまだ実現されていないが将来実現されるべき真実、それは過去の正しさの延長線上にあるものであるが、そのためにいまを自分が美しいと思うあり方で実現しようと、さまざまな形で表現活動を繰り広げている人で、複数の真実を目指すために一つの尺度では合理的行動には見えないかもしれないし、また単に合理性基準が異なっているだけかもしれない人である。」
帰納的社会論理の可能性
こう想定した時に、このような人々はいかに協力関係を作って「社会」を構成することができるのだろうか。そこで、論理の適用の仕方を、演繹的ではなく、帰納的に考えてみたらどうだろうか。つまり、それぞれの人がそれぞれのもつ真実に基づいた将来像を提示し、その目的についてそれぞれの立場から対話を行い、自らの立場の基盤にある正しさとあう部分については共通前提として協力関係を結ぶ、というあり方だ。つまり、目的がまずあって、そこに対して個々の持つ前提と合わせるように、帰納的に論理を組み立てる、ということだ。そしてその前提は、随時対話により更新可能で、決定的にずれてしまったら、前提を全て解消して離脱可能になるようにすることで、一度出来上がった論理にずっと縛られる必要がないようにする。
このような社会的論理構造の構築の仕方によって、人は、論理に従属し、支配されるのではなく、論理を道具としてより上手く活用できるようになるのではないだろうか。
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