きれいなひと
先日、某医師の処置の介助についているときのこと。
以前、その医師から薦められた小説を読んだ感想について話をしたら、
「その小説を読むと、私みたいな人間でもきれいな人間になったような気がします。」と言われた。
「先生はきれいな人間じゃないんですか?」と聞いたら、
「私はきれいな人間じゃありませんよ。」と言われた。
帰り道に、ふと、そのことを思い出し、
「きれいなひと」について考えた。
「きれいなひと」でいたいな、という思いはある。
でも、「きれいなひと」ってなんだろう。
薦められた小説は、「みをつくし料理帳」(髙田郁作 ハルキ文庫)という時代小説で、江戸時代を舞台とし、天才女料理人が数々の試練に見舞われながらも成長していく様を、ありありと描写した内容である。
主人公の澪は、料理に身を尽くし、私利私欲に走らず、周囲の人を健やかにする料理を作ることに全うする。
でも、利他的であることが、はたして「きれいなひと」なのだろうか。
それとも、一心に自分の決めたことをやり抜くことが「きれいなひと」なのだろうか。
そうであるならば、その医師は、自分のことを、利己的で、責任感や忍耐力がない人間であると思っているのだろうか。
私から見たら、その医師は、確かに見た目は不愛想であるが、温かみがあり、充分利他的で、責任感や忍耐力に溢れていると思うのだが。
それとも、ただ単に、ニヒルな感じを装ってみただけなのだろうか。
いずれにせよ、「きれいなひと」の定義はその人の持つ価値観の中での判断で、曖昧であることは確かだ。
ともすれば、利己的な人は「自分」というものが定まっており、責任感や忍耐力がない人は「変化」に柔軟に対応できる特徴があり、充分「きれいなひと」である。
まあ、物事には、何事も裏表がある。
「きれいなひと」なんて、時代によっても、環境によっても、人の認知によっても全然違うのだから
味方を変えれば、自分も、今のままで充分「きれいなひと」なのかもしれない。