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【写真日記】正岡子規が暮らした家を訪ねて・東京根岸「子規庵」へ再び
先週、東京を訪れたときのこと。
滞在先のホテルで、一日目は観劇を楽しみ、さて二日目はどこへ行こうか…と迷っていたら、夫が「子規庵に行ってみたい」と言い出した。
子規庵とは、明治の俳人・正岡子規が住んでいた家である。
実は4年前の秋、私は一人旅で上京した時に子規庵を訪れていた。夫は、旅から帰ってきた私が話す子規庵の思い出話と、以前見たNHKドラマ『坂の上の雲』の印象が重なり、自分もいつか訪れてみたいと思っていたそうな。
私も久しぶりに再訪したいなぁ…と思っていたので、その話に乗っかることにした。
鶯谷駅から子規庵へ
朝、滞在していた新宿のホテルを出て、新宿駅でJR山手線外回りに乗り、鶯谷駅を目指す。最初はかなり混んでいた車内も、池袋を過ぎたあたりから空いてきたので、座席にゆったり座ることができた。
車窓から見える東京の街並みの風景をしばし楽しむ。
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鶯谷駅からは徒歩5分のところに子規庵はある。以前もGoogleマップに従って歩いたのだが、今回もGoogle先生のお世話になった。
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車一台がようやく通れるくらいの細い道路を歩いて行く。以前はこの辺りは閑静な住宅街だったんだけど、久しぶりに訪れてみたら、駐車場や小さなホテルがあちこちにできていた。
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住宅街の中にポツンと建っている子規庵。近くにはコインパーキングや鉄筋コンクリート造りの建物もあり、すっかり令和の街の風景に変わりつつある通りの中で、異質なほど全く何の飾り気もなく、そこだけ明治の清貧な雰囲気を堅固に残していた。
開館時間よりも少し早くに到着したので、門は固く締められている。
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開くまでの間、庵の周りを見て回ることにした。
◆
子規庵のすぐ真向いにある台東区立書道博物館。
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ここ書道博物館は、明治から昭和初期に活躍した洋画家であり書家の中村不折が設立した博物館で、昭和11年に開館した。その後、約60年にわたって不折の遺族である中村家の手で維持管理がなされてきたが、平成7年に台東区に寄贈され、平成14年に台東区立書道博物館として再開館した。
この書道博物館に収められているものは、古代中国史や書道を学んだことがある人なら絶対に感動するであろう貴重なものばかりで、私も初めて入館した時は感激で胸が震えた。日本人だけでなく中国からの見学者も多く、みなさん感嘆していらっしゃるところから、資料の充実ぶりが伺い知れる。
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中村不折といえば、多くの人に馴染みがあるエピソードとして、新宿中村屋のロゴを書いたことが挙げられるだろう。あの特徴のある書体は、彼の筆によるものである。あと、夏目漱石の小説『吾輩ハ猫デアル』の挿絵を描いたことでも有名である。
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中村不折がこの場所に住み始めたのは大正4年。子規が亡くなった後である。以前は中根岸に住んでいた。
正岡子規と中村不折の出逢いは、新聞「日本」が縁となる。この新聞を創刊した明治のジャーナリスト・陸羯南は、正岡子規の才能に惚れ込み、彼を入社させて、紙面に子規の短歌や俳句、文学論を掲載したのだが、子規の連載に添える挿絵を中村不折が担当したのが、二人の出会いとなった。明治27年のことである。その後、明治28年には日清戦争の従軍記者として共に中国に赴いている。二人の交流は続き、子規は不折から譲り受けた絵具を使って、水彩画を描くようになる。病床で絵を描くことは、やがて子規の愉しみの一つとなった。
ちなみに、子規が暮らした家(子規庵)は、陸羯南の家の西隣にあたる。羯南は子規を新聞社に入社させて経済面で支えただけでなく、自宅の隣に住まわせて生活面でもフォローし、終生彼の世話をしてきた。そんな羯南のことを、子規は「命の恩人」と心から感謝していたそうである。
◆
おっと話を戻そう。
ようやく開館時間になったので、私たちは子規庵に入った。
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子規が家族と暮らした家
懐かしい佇まいの玄関である。
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ここ子規庵は、もとは前田家下屋敷の御家人用二軒長屋だった建物で、子規は明治27年にこの家に移り住んだ。その前から、羯南の世話でここ上根岸に住み始めており、その時、故郷の松山から母と妹を呼び寄せている。そして同じ上根岸にあったこの家に引っ越し、ここが終の棲家となった。
子規亡き後は、母と妹が住み続け、子規の門人たちが開く句会・歌会の世話を続けながら過ごしてきた。しかし、建物の老朽化や関東大震災の影響もあり、昭和元年に一度解体され、復元工事を行っている。
その後、太平洋戦争中に空襲に遭って消失。子規の門弟だった寒川鼠骨などの尽力により、昭和25年に再び復元された。
◆
玄関を入ってすぐ横の受付で、入庵料を支払い、奥へと進む。
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最初に八畳間に入る。
以前訪れた際、初めてこの間に入った瞬間、正直「狭い」と感じたことを思い出した。ここで訪問客をもてなしたり、句会を開いたそうである。
平屋建てのこの小さな家に子規と母と妹が住み、子規の友人や弟子たちがひっきりなしに訪れて、歌会や句会を開き、多い時にはこの八畳間に何十人もの人が詰めかけたという。
しかも子規は、この家に住み始めてすぐ、以前から患っていた結核をこじらせて結核性脊椎炎(脊椎カリエス)を発症。ここから約6年にわたる闘病生活が始まるのだ。
この狭い家の中にいると、来客の給仕に追われつつ三度の食事を作り、日々の雑事や家事にも追われ、病の苦しみにのたうちまわる子規の看護をしてきた母と妹の大変さが、どことなく伝わってくる。
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子規の食事
ところで、この庵を訪れて初めて知ったことの一つに、子規の食欲旺盛さがある。
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私と一緒にファイルをパラパラめくって見ていた夫も、「えっ?こんなに食べていたの!?」と驚いていた。
実は前回、私がこの庵を訪れた時、ちょうどたまたま、この写真ファイルを作成したというボランティアの男性が在庵されていて、ご丁寧に庵の中を案内して下さり、子規の食事量の凄まじさを教えてくださったのだ。
男性は「うちの家内に再現して作ってもらったんですよ。家内もこれを毎日毎食三度三度作り続けるのは本当に大変だと驚いていました」と話しながら、このファイルを開いて見せてくれた。そして「これほどの量を本当に食べたのか…と私も驚きました。食べることが、子規にとっては唯一の生きている証だったのではないかと思いました」とご自身の見解を私に語ったのだ。
これが強く印象に残っていて、私はもう一度この庵を訪れて、食事ファイルを見て確かめたかった。やはり、こうして改めて拝見しても圧倒される。
私から話を聞いていた夫も、実際に食べたであろう食事内容の数々を見て圧倒されつつ、やはり同じことを感じたようである。私も同じく。
とにかく食べることで、命をつないでいる。
食欲があるうちはとにかく食べる。今食べたものが治してくれるかもしれない。食べられるうちは、まだ死なない。だから死なないために食べる。必死で命がけで食べる。絶対に食べる。
そんな心情だったのではないか…。あるいは、もしかしたら、無我夢中で食べている間は、身体の痛みから少し解放されるような心地がしたのかもしれない。
切ないほど食への欲求が強かった。痛みに耐えながらも必死に飯を食らっていた子規を想い、胸が熱くなる。
病牀六尺の間で子規を想う
玄関から入ってすぐの八畳間から左へ向くと、こじんまりとした六畳間があった。ここが子規が闘病生活を送った部屋である。
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『九月十四日の朝』 病牀に置いて 子規
(前略)
顔はすこし南向きになったままちっとも動かれぬ姿勢になって居るのであるが、そのままにガラス障子の外を眺めた。時は六時を過ぎた位であるが、ぼんやりと曇った空は少しの風もない甚だ静かな風景である。窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葦簀が三枚ばかり載せてあって、その東側から登りかけて居る糸瓜は十本ほどのやつが皆痩せてしもうて、まだ棚の上までは得取りつかずいる。花も二、三輪しか咲いていない。正面には女郎花が一番高く咲いて、鶏頭はそれよりも少し低く五、六本散らばっている。秋海棠はなお衰えずにその梢を見せて居る。余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持て静かにこの庭を眺めた事はない。
(中略)
虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めていると、たまに露でも落ちたかと思うように、糸瓜の葉が一枚二枚だけひらひらと動く。その度に秋の涼しさは膚に浸み込むように思うて何ともいえぬよい心地であった。何だか苦痛極まって暫く病気を感じないようなのも不思議に思われたので、文章に書いてみたくなって余は口で綴る、虚子に頼んでそれを記してもろうた。筆記しおえた処へ母が来て、ソップは来て居るのぞなというた。
ーーーーーー
子規子逝く
九月十九日午前
一時遠逝せり
(「ホトトギス」第五巻第十一号 明治35年9月20日)
上の文章は子規が亡くなる五日前のもの。庵に詰めていた門人の高浜虚子が、子規の口述を書き取った。
前夜、壮絶な苦しみを味わいながら一晩を過ごした子規は、早朝、不思議な静寂の時を迎える。痛みから解放されて心身ともに穏やかな境地に至り、目の前のガラス障子を通して庭の草花を眺める。その時の情景を記録したこの文章が、最後の随筆となった。
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一時は小康状態となった子規も、4日後の9月18日、容体が悪化する。妹と弟子の河東碧梧桐に助けられて筆を持った子規は、画板に貼った唐紙に最後の句を書いた。
おととひの へちまの水も 取らざりき
糸瓜咲きて 痰のつまりし 佛かな
痰一斗 糸瓜の水も間に合わず
終始無言で書き上げた子規は、この日のうちに昏睡状態となる。
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翌日19日午前1時、死去。
この小さな世界で、病に苦しみながらも、家族や友人、門弟たちに支えられて創作活動に勤しんできた子規。享年34歳11か月の壮絶な生涯だった。
◆
受付の女性の「どうぞごゆっくりご見学ください」のお言葉に甘えて、私たちは隅々まで丁寧に、庵の中を見学させていただいた。
きれいに清掃されている庵内。空け放した窓から涼しげな風がスーと通り、爽やかで心地よい。建物の清廉な佇まいのあちこちから、子規が生きた明治という時代の空気を感じ取り、感慨無量だった。
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庭に下り立つ
この庵の出口は八畳間の縁側で、庭に下り、庭を通って裏門から出る仕様になっている。私たちは庵を出ることにした。
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以前訪れた時は、10月の終わりだったので、この棚に大きな糸瓜がたくさんぶら下がっていた。しかし今回は6月。植えられた糸瓜はまだ若い。これからすくすく伸びて、大きく育っていくのだろう。
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糸瓜の蔓を見ていたら、そういえば以前の訪問の際に、私が詠んだ句があったことを思い出した。ちょっと記してみる。
糸瓜水 子規の命の 滴かな
命懸け 言葉を紡ぐ 子規の筆
あの時と 変わらぬ糸瓜 風に揺れ
初めて訪問した時の感激が句によく表れていて、私の自信作である。でも、もしも子規先生が見たら、厳しく手直しされるかもしれないなぁ笑。
◆
庵の周囲の街の風景は、この4年の間にまた変わってしまったけど、この庵だけは、子規が生きていた頃のまま、いつまでも変わらずそのままの姿で残り続けてほしいと切に思う。「不易と流行」という言葉があるけど、ここは「不易」のものとして、いつまでもいつまでも子規の魂と共に、ここに生き続けてほしい…と。そう、明治という時代の佇まいを忘れないために。いつまでもいつまでも心に残すために。
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