沈黙が怖い

今回はあるノートを読んで自分の経験を反芻した呟きです。ただの呟きです。

読んだノートはこちら
現在私が参加している、人類学のゼミを開催してくれている主催者の一人、比嘉さんのノートです。

このノートの最後の段落、“「余白」を作り「想定外」を生むこと”を読んで思い出した"ざわざわ"がありました。それがタイトルにもある「沈黙が怖い」感覚です。

このザワザワを感じるタイミングは決まってレトロスペクティブのファシリテーターをしている時でした。
スクラムと呼ばれるフレームワークを使って開発をしているチームは、レトロスペクティブと言って、定期的に自分達の働き方をふりかえり、改善に向けて話し合いを持ちます。
その一定期間で起こった、嬉しいことつまらなかったこと、予期していなかったコミュニケーションミスや使っているツールについてなど、自分達が行っている働き方を一つのプロセスとして点検し、改善のアクションを持ちます。

働き方って生き方なので、ダイレクトに価値観を表し、結構感情に紐づくことがあるなぁと感じています。
思ったままを表現するのって結構時間がかかるし、慣れていないとなかなか表現のやり方がわからず何も出てきません。なので発話や対話を促す目的でファシリテーターがいるのですが、ファシリをしていると沈黙がとても怖いんです(怖かったです)。ここでの沈黙は余白とも言えるなと、そう思いました。

人類学者は偶然の出会いやそこから展開する出来事の連鎖を何よりも大切にしています。それはただなんとなくそうしているわけではなく、あえてプロジェクトそのものに「余白」をつくり、そのようにして「想定外」の人びとや出来事に出会っていく余地を積極的に残しているわけです。


ファシリテーターとしてその場にいると、想定外が怖かったです。だから想定外が生まれうる余白も怖い、そう感じていたのかなと今振り返って思いました。
私は、スクラムマスターやその他ファシリテーションを学んでいる人と話すことがたくさんありますが、ファシリテーターとしてその場をコントロールしたい自我との葛藤みたいな話は良く聞こえてきます。私もその自我を感じ、手放そうともがき、気づいたら以前よりもキツく握りしめている自分に気づき愕然とする、みたいなループにはまっていました。
自分が沈黙を受け入れる、そこにいる人にも沈黙を受け入れてもらって対話をしてもらうために(ここにはまだ自分のバイアスや願望があるなぁと書いていて感じています)、いろんなプラクティスや事例から良いバランスを見つけられるように、日々学ぼうと試みています。
想定外は、一歩前に進んだからこそ見える景色なので、前に進んだ証であるし、もっと前に進みたいと思わせてくれるもの。最近は沈黙に出会うと、それはそのチームとチームの中で起こっていることを知る手がかりなので、ゆったりと流れる雲を眺めるように穏やかな気持ちになることが増えてきました。(いつもではないですが。。)

ああ、人間だなぁ、沈黙って必要だよね、となる今日この頃です。
今日もチームのレトロに立ち合います。スクラムマスターではなく、アジャイルコーチとしてなので、さらにもう一歩外側から観察します。

今日はどんな想定外が起こるかなぁ。

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