拾っても硯
「みんなが小学生のときに使ってたプラスチックの硯って、厳密には『硯』じゃないって言ったほうが近いんだよね」
なんてことをつい口走ってしまうと
「え、じゃあ硯の定義って何?」
と深く掘り下げられてしまう。
あぁ〜またやっちゃったなぁ……なんて思いながら、長々硯の説明をすることになる。
硯とはザクッと言えば「墨を磨る道具」で、墨さえ磨れれば形状は問わない。丸でも四角でも、なんでもいい。それこそ、みんなによく驚かれるのだが、水を貯める場所のない「ただの石の板」でも硯なのだ。
ところで私は旅先でつい石を拾って帰ってしまう癖がある。綺麗な石、珍しい石を見つけるのが好きな訳では無い。「あ、この石、墨を磨れそう」と思ったら持って帰りたくなるのだ。
そう、つまりは拾った石でも硯になれるのである。小学生の習字セットに入っているプラスチックの硯は墨を磨ることはできないが、自然に落ちている石の中には墨を磨れる石がある。習字セットの硯よりも、よほど「硯」なのである。
私には書道の師とは別に、小学生の頃に習っていた仲良しのお習字の先生がいるのだが、あるときその先生が神妙な顔で「相談がある」と言ってきた。
「実はね、三年前くらいに、出かけ先で硯になりそうな石を見つけて拾って帰ってきてしまったのだけど、これって盗難よね……。謝って返しに行かなくちゃと思ってて……」
なんでも国営公園の中の川辺で拾ったそうだ。
それを聞いた私は、善人すぎる先生の発言にビックリした。私は当たり前のように持って帰ってきてしまっているぞ!?
「え? それくらい全然大丈夫じゃないですか? 私も時々持って帰っちゃうし」
「あら! えみちゃんもなの!?」
先生は驚きつつ笑っていたが、後日、善意の心に耐えかねて返しに行ったことを教えてくれた。さすが「先生」、鑑であるなと思った。私は悪い人間なので返しに行ったことはまだない。
小学生のときから習っていたから、私も先生に似たような趣味を持ってしまったのだろうと思って、そのときは嬉しく思ったものであるが、この「癖」は実は「あるある」なのかもしれないと気づいたのは大学生になったときである。
あるとき、書道の教授と硯の話で盛り上がっていたら、教授がご機嫌に言い出したのだ。
「僕はねぇ、どんなにいい硯を買っても、やっぱり自分が拾ってきた石が一番気に入ってしまうんだよねぇ」
あらやだ! 教授まで石を拾ってらっしゃるのね!
私は驚きつつ、教授があまりにも当然のことのように話すので
「わかりますー!私も自分で拾った石は特別に感じてしまいます!」
と、当然のことのように共感してみせた。
「だよね! あれは自分で拾った、宝物なんだろうねぇ」
教授はちっとも驚くことなく、当然のように頷いている。
な、なんかわからないけど当たり前らしいぞ!? みんな当然のように石を拾うらしいぞ!?
なるほど、みんな石を拾っているのか、よかったよかった、となぜか謎の安堵をした私は、このときから「みんな石を拾っている」と思い込むようになった。
読んでいる方はもう知っているだろう。
そう。
石を拾う人はあんまりいない。
この事実に気づいて私が慌てふためきはじめるのは、大学を卒業し、出会ったたくさんの人に「拾った石」の話をしたあとのことである。大学の教授以来、未だに「石を拾う人」に出会っていない。私は大学生までに地球上にほんの数人しか存在しない人種に高確率で出会ってしまっただけだったようだ。