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今、こうして思うこと。「How to have what we already have」

すごく久しぶりの投稿となりました。
このnoteだけをご覧いただくと、長く時間が空いたように思いますが、私自身としてはとても濃厚な日々を過ごしていたいたように思います。この一年でガラリと変わったことが多く、また、東京での生活はどうしても情報に溢れてしまい、仕事も手を抜けられないので、以前のように身軽に動けないところもありました。

先日一年半ぶりの海外旅行を終えたのですが、久しぶりの休暇をいただき、フランスなどヨーロッパを訪れました。そして今回は、旅先に茶道具を持って行かないようにしたのですがこれは意図してのことで、荷物に茶道具がないことは実におよそ8年振りのことでした。
(といっても、お茶は少し飲みましたし、お茶を取り扱っているお店は回りましたが茶葉や器を購入することはありませんでした。)

今では、普段の仕事で日々日本茶に触れ、プライベートの日々では台湾茶・中国茶を主にと公私お茶に触れていて、まさしくお茶と共に生きているという感覚がより強まった感じはしますが、今ある豊かさや心の余白の大きさをちゃんと知るために、あえてお茶から離れてみるという試みだったのです。客観的に普段の自分を省みることで自分の知らないところで見落としているものごとがきっと見つかると思ったからです。それはお茶への考え方だったり、それだけではなくただ習慣になってしまっている癖や概念も手放してもっと身軽になりたかったということもあります。

私にとって旅することは、肩書きも何も関係なく真裸の自分に戻る感覚です。そこで肩書きを出したかったらば出せば良いとは思いますが、仕事やお茶会があるわけでもない場合は、その国を”ただ旅している人”である方がリラックスできて心地良い時があります。そういう旅は私にとってリトリートになります。

今回、旅をしていろんな気づきがありました。
スイスの山を訪れた時も、違和感のない今の自分自身の存在が有り難く感じられ、溢れんばかりの感謝の気持ちでいっぱいになりました。今私が進んでいる道、今私が歩んでいる道、共にいる人々、職場のこと、などなど、全てがその道で正しいんだという実感が感じられました。体や心がそう反応している感覚です。これは大きな開放感でした。

他にもいろいろ感じたことはありますが、気づきで得た思いの丈を全て書き起こすととても長くなってしまいますので割愛いたします。。。

旅でリフレッシュでき、再び普段の日常に戻ったあとも、本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。誰に感謝する、何に感謝する、具体的な言葉は出なくとも、「感謝」から心身に響くあたたかさが一番の健康のように思いました。それはつまり、今まで出会ってくれた人お世話になった人への感謝、昔の大変だったことへの感謝などなど、今までの私を全肯定する陽の力です。
感謝も愛なんだな、愛はあたたかく心地が良いんだな、こんな世界がずっと続いていればなんて素敵なんだろうと。佳い力の波紋が広がり、わたしの心身の細胞に働きかけるような感覚でした。そしてそれはまるで美しい水の泉のようでした。



スイスのグリュイエールにて


前置きが長くなりましたが、旅から帰ってきて、そんなあたたかさの中、読み終えないままずっと積んでいたある本を再読して読み終えた時、まさしく今の心境にぴったりで、著者の言いたいことが身に染みて理解できたのでした。わたしも少しは成長できたのかしら、ちょうど同じようなことを感じておりましたよ、ありがとうございます!というような気持ちでした。

すごく素敵な内容で、また、わかりやすく書かれているので、こちらでもシェアしたいと思います。

( 11月、當代養生茶道に来られる皆様にはコピーをお配りいたします。お時間のある時にぜひ一読くださいませ)

以下、一部に限定して引用させていただきます。


藤 生きていると必ずしも愉快なことばかりじゃないですよね。ふつう、僕らは今起きていることに対して何らかの注文をつけるんです。注文、不平不満、文句をいつも言っている。仏教では、重要なのは、周りで起きていることではなくて、それに反応する僕らの心の在り方だと言うんですよ。
 英語で「appreciate」という単語があるんですが、なかなか面白い動詞で「深く理解する」と「有り難く受け取る」という二つの意味があるんです。深く理解しないと有り難く受け取れないじゃないですか。たぶん僕らがなんで文句を言うかと言うと、ちゃんと事象を見ていないからだと思うのです。自分の狭い了見で見ているから、「あれがない」「これがない」「これが多い」「これが少ない」と現実を受け入れないで、それに何かを足したり、それから何かを引いたりしようとするんだけど、もっと視野を広げて見ると実はありあまるくらい豊かに与えられている。本当はすでにじゅうぶん持っているのに、実際はそれをちゃんと持てていない。英語で言った方がわかりやすいのかな。だから、「How to have what we already have」ということが課題になります。

 やっぱりそこもセンシビリティの問題ですね。あるということを、如何に感覚として意識できるかということなんでしょうか。

 ないものを探して手に入れるんじゃなくて、すでに持っているものを如何にちゃんと持つかという問題です。今すでにあるもので如何に豊かな瞬間をそこにクリエイトするか。それがお茶が大事にしている精神なんじゃないですか。

 だから必ずしも豪華である必要はないわけですよね。庭に咲いている花と自分で選んだ茶碗と好みのお茶があって、そしたら十分にハッピー。そう言って一緒に喜びをわかち合える友がいればそれで幸せ。ということに尽きるような気がします。

 そういう態度というかセンシビリティが先ずないとね。それなりのお道具を揃えてからじゃないとダメだとかいうと、本質からずれて横の方に逸れていってしまいますから。いま保科さんが言ったようなことがお茶の原点じゃないですか。そういう原点なしで道を歩いていると、見せかけのものを道にするしかない。本当の豊かさというものは、今ないものをむやみに求めないことの中に生まれてくるんじゃないですか。

 「the way of tea」の「the way」はあなたにとって何ですか?、私にとっての「the way」は何だろう?ということを、いつも自問しながらお稽古をしていたら、その人なりのお茶になっていくのでしょうか。

 そうだと思います。

                           抜粋終わり

      :藤田一照  :保科眞智子 

  

 『as it as 暮らしにお茶を』保科眞智子著・藤田一照インタビューより


11月、今月は立冬も迎えます。季節がとても不安定ですね。どなたさまもどうぞご自愛くださいませ。感謝を込めて。


   月 花 美 茶   Y U E H U A M E I C H A


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