大豆田とわ子と三人の元夫 最終回 総評
【描きたかったモノ】
6話ではとわ子が不在なのにそこにはきちんととわ子の存在がある。
かごめちゃんは亡くなったが、それが現在でも残っている。
最終回でとわ子の母は一度も出てないが、想像できる。
西園寺君は最後まで顔を出さない。
どれも回想にしそうだが回想にしていない。
不自然に大きな出来事や盛り上がりとなるシーンは排除される。対照的に普通のドラマならこぼれ落ちてしまいそうなところにスポットライトが当たる。そこが優しいと感じたのは私だけではないだろう。
周りの人を描けば中心の人がどういう人か伝わる。ドーナツのような構造のドラマだったのだ。それは坂元さんの作家性でもある。例えば、「いつかこの恋をきっと思い出してしまう」でもこのような台詞がある。
音「恋って会ってる時間じゃなくて会わない時間に生まれるものなんじゃないですか?」
そこに人がいなくても想いはあるのだ。それは生きてようが亡くなっていようが関係はない。そんなことがビシビシと伝わるドラマであった。
【今だからこそ】
以前坂元さんはプロフェッショナルでこのようにおっしゃっていた。
バスの帰りで雑談をして、バスの車中で「今日は風が強いね」とか「前のおじさん寝ているね」「うとうとしているね」とかそんな話をしながら「じゃあね」って帰って行って、家に着いて一人でテレビでも見ようかなって思ったけどテレビを消して、こうやって紙を折りたたんでいるときに
「ああ、私、あの人のこと好きなのかもな」
って気が付くのであって小さい積み重ねで人間っていうのは描かれるものだから僕にとっては大きな物語よりも小さい仕草で描かれている人物をテレビで見るほうがとても刺激的だなって思うんですよ。
それが今回はこのような形で語られたのだ。
【雑談】
とりわけ坂元作品では、雑談が多用された。坂元さん自身居酒屋などで雑談を聞くことが好きだと公言している。今作は、雑談ドラマであったのかもしれない。雑談にこそ人柄が出る。雑談にこそ生活が出る。雑談にこそ優しさがある。雑談が居場所になる。
だが、今のご時世そういった雑談が不要不急になりつつある。こんな時代だからこそこの作品が生まれたのではないのだろうか。そうリモートドラマLivingで作家のあり方についても語られたように。
本来ね、作家というものは人間の醜い部分を書くものなのだよ、危険な毒を吐くものなのだよ、それがいまやなんだ、正直現実の人間が醜すぎて、私の吐く毒が毒じゃなくなってしまった、とんかつ屋に行ったらとんかつ出されたみたいなことになってしまった、そうだよ、そうなんだけどもね、こうなった以上もうしょうがない、私は言うぞ、人間って素晴らしい、人間は生きる価値がある、人間は居ていい、そう言いたい、私は負けないぞ!
全10話ありがとうございました。遅くなりましたが、これで全話を書き終えました。いつかまたこの作品を見たくなったときは是非過去の投稿も一緒に見てください。制作スタッフの方々お疲れ様でした。
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最後はこの会話で終わらせてください。
鹿太郎「例えばさ、お風呂のお湯が水になって川に流され海にたどり着く。海に行ったら体がベタベタしてお風呂に入る」
とわこ「ん?」
鹿太郎「だからね僕は何度でもお湯となって水となって巡りめぐって君を好きだってこと」
八作「僕たちはみんな君が好きだってこと、大豆田とわこは最高だってことだよ」