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教育現場の課題と、求められる人材育成の姿とは

元週刊文春の編集長で、岐阜女子大副学長のご経験もある木俣正剛氏に、ジャーナリストの視点と大学経営に関わられたご経験に基づく、現在の教育現場の課題や、人材育成の在り方についてお話を伺いました。

木俣 正剛

-略歴-
1955年京都市北区生まれ。衣笠小学校・洛星中学・高校卒。
1978年早稲田大学政治経済学部政治学科卒、同年文藝春秋入社。
文藝春秋デラックス編集部、週刊文春編集部などを経て、その後、月刊文藝春秋編集部のデスク。
1997年 週刊文春副編集長、2000年 週刊文春編集長、2004年 第一編集局次長。
2007年より第二出版局長:2009年第二出版局長兼新書局長 
2010年6月より文藝春秋編集長。
2012年4月より第一編集局長。
2013年より取締役・第一編集局(文藝春秋 週刊文春編集部)営業局・情報流通システム局担当。 
2014年第一編集局 広告局 CREA局担当に。
2015年常務取締役、ノンフィクィクション編集局 MumberCREA 局・営業局統括・情報流通システム局担当。この間、新谷編集長休養により週刊文春臨時編集長を兼務。
2017年常務取締役・ノンフィクション編集局 営業局 編集総務局、情報流通システム局統括(増刊・ムック編集部はノンフィクション編集局のなかにあります 
2018年文藝春秋退社。同年9月岐阜女子大学文化創造学部教授 
2019年4月より岐阜女子大学副学長 図書館長 理事 教授となる。    2019年10月から東京新聞・中日新聞・北陸中日新聞夕刊に「文春の流儀」を連載 2020年よりダイヤモンドオンラインで「週刊文春編集長の懺悔録」を連載。
2021年3月 「文春の流儀」を中央公論新社から刊行
2023年 大阪キリスト教短期大学客員教授 OCC教育総合テック研究所上席研究員


教育が社会に果たすべき役割は、すべての基盤作りにある

◼️ 岐阜女子大副学長のご経験から、教育の現場や、学校経営の課題をどのように捉えてらっしゃいますか?



地方の女子大ということで、少し特殊な経験かもしれませんが、まだ女学校の匂いが残っていました。機会均等法がない時代はたしかに、教師か公務員しか道がなかったので、どうしても、進路指導がそちらに偏ります。就活指導は、小生一人がほとんど引き受けていました。

しかし、偏差値がそれほど高い学校でもないので、実際には公務員、教師になれる学生は限られています。そのために就職があるのですが、「女学校」の発想なので、従順で大人しい女性を理想とする教育でした。当然、事務職を望みます。しかし、いま、四大生に一般職の事務などほとんどありません。
総合職として幹部職員をめざすカリキュラムではないため、一般教養に欠け、競争心や自立心に欠ける生徒が目立ちました。MUSTやCANは教えるが、WANTを教える、いやWANTを考えるきっかけを与える大学のシステムになっていなかったと思います。

学校経営の課題としては私学でオーナー経営のため、大学の先生方は研究がほとんどできず、また新しいことに挑戦しようという先生も少なかったように思います。

◼️ 木俣さんの他のメディアでの記事にある、ゲストティーチャーの活用、実務家教員の必要性について、詳しくお考えを教えて下さい。  



岐阜女子大は文科系の中心は初等科で、これは保育士から高校教員までを育成します。また家政学部(理科系)にも、生活科学(家庭科教師)を育てる学科があります。

教師不足について、給料が低い、残業代がないといったことばかりが強調されていますが、地方では教師は大体金持ちの部類です。(夫婦で教師が多いのも理由のひとつ)。ですから、むしろ働き方改革をすることが教師不足を解消することになると思います。

高知県で小学校教員の合格者三分の二が辞退というニュースが世間を驚かせましたが、すでに佐賀県は小学校教師試験の倍率は1.02倍です。冗談で学生に、佐賀でうければ絶対受かるといってました。しかし、小学校(保育士もそうですが)、古い教師が多く、さらに教える教授も高齢の先生が多数を占めるのが地方の実態なので、ICT教育やAI保育を教えられる先生も、また教えようとする先生も皆無というのが実情だと思います。(よほど進歩的な私学以外は。)

医者でも会社員でもそうですが、なるべく新しい技術が導入されないことを望みます。私は文春時代、システムの新造を担当しましたが、若い人ほど、システムの改良に不熱心でした。

特に営業部は、配本を担当するのですが、本来書店で営業すべきなのに、PCに張りついて、配本を日本全国に設定することが一番の仕事だと思っている部員が多数でした。小さな権力者になれるからです。システム改変で、配本はAIでできるから、10年後を見据えた営業部は半数でいいという形で進行して、猛反対をくらった経験があります。 これと同じことが、教師の世界にもおこっています。理解のある経営者、理解のある教育者を育成、啓蒙することが一番大事だと思いました。

とにかく教育実習に行くと、今や、高校・中学のほうがデジタル化していることも多く、教育実習の指導案をもう一度ICT教育に堪えられるよう相談されたことが、やめてから二年で10件以上ありました。 家庭科教師の投資授業なども外部教師にまかせるのが一番だと思います。

部活も同じで、結局、現在の教育界は、上司との打ち合わせ・報告、保護者との対話や連絡のほうに時間がかかり、肝心の子供に向き合いたい希望者の気持ちをフルに使える職場になっていません。部活も、それぞれの職場で副業や、退職後の仕事として若者と向き合う機会を増やすことは、企業にとっても人生にとっても、あるいはその人々と学校の先生が交流することも含めて有用だと思います。

私の経験も含めてそう思います。 大阪キリスト教短期大学に招かれなかったらAIを学ぼうと思うこともなかったし、学生と遠隔で学び会うというようなこともありませんでした。 今は、まだAIができないことのひとつに書道があるので、現在学生に対し世界初のAI書道家になれと背中を押しています。大学には、ある程度PCもあり、ソフトも充実しています。個人で、なかなかソフトはそろえられません。ICT教育もAI教育も、遅れてしまった学校は、Z世代と一緒に学ぶくらいの気持ちでやってゆけば、生徒や学生とのコミュニケーションにもいいのではないでしょうか。 そこに外部からのインストラクターがくれば最高です。要は点数などつけず、楽しんでやればいいと思うのです。 実際、文春のブックデザイナーが一日、大学にきて4時間の授業でイラストレーターとフォトショップを一年生全員が使えるようになり、全員ブックカバーを造ることができました。偏差値が低いところほど、導入して効果があがると思います。

◼️ 社会や世界を変えていく人材育成について、どのようなことが必要だと思われますか?


社会も世界も、私は変えた経験がないので大きなことはいえませんが、一応メディアの人間として社会に影響を与えたり、社会の潮流を変えたりした経験はあります。 これができる編集者と、できない編集者がいます。後者は大体、売れ筋のマーケティングを行い、前者は納得するまで質問し、取材する人間です。これはどの世界でも同じではないでしょうか。納得するまで質問し、勉強し、そして、実現可能な案を考え、上司を説得して変えてゆく。このプロセスはいつも大事だと思います。
文春では面接でこんな質問をすると、HPに公開しました。「あなたが、文春に入り、冤罪キャンペーンに参加して、見事冤罪を勝ち取った。出所した彼はお礼といって一席もうけてくれたが、酒をのんで口がすべり『あなたにはお世話になったので、いいます。実は犯人なんです』。 この質問に正解はありません。私がみたいのは、その子の考えるプロセスであり姿勢です。しかし、有名大学生の多くが「上司と相談します」と答えました。これだけはアウトです。自分で考える。自分を貫ける人材が必要だと思います。

WANTを重視する教育が必要。これは日本社会全体の問題である。

◼️ 未来の教育の主な目的は何になるべきとお考えですか?



WANTを重視する教育です。しかし、これは実は教育の世界だけでなく、日本社会全体の問題でもあります。 問題の本質をとらえ、いうべきことをいう人が日本には、減りつつあるように思います。公益通報制度の無視、裁判の形骸化。独立した判断ができない大人が多くなった時代で、子供だけをそこから抜け出させるのは大変だと思います。

◼️ 現在の教育システムは、未来に適応できるのでしょうか?



正直、現在の教育者(公私立を問わず)、は予備校に下放(毛沢東が都市住民を農家に追放しました)せよというのは極論ですが、民間に出向したり、予備校の授業をみたり、とにかく、今までの慣習はおかしかったと自覚させるだけの改革が必要だと思います。

◼️ 知識伝達とスキル教育のバランスはどうあるべきか?



スキルには、いろんなスキルが含まれますが、大衆社会はスキルの発達で出来上がりました。私は大学のゼミ論が「オルテガ」というスペインの哲学者で大衆社会に潜む危機を叫んだ人でした。

オルテガの言葉使いは少々時代がかっているので、簡単にいいかえると「昨日、バイオリンを覚えたばかりの人間がイッパシの専門家の顔をして、一流バイオリニストを批評する」世界が到来するということです。今のSNS万能の考えで訓練されたジャーナリストの記事を同等に批判したりしているのも、このスキルのせいです。しかし、また、スキルがあるから、知識の伝達も早くなりました。 いま、「太平洋戦争から今日に至る日本の男女平等と精神病対策の遅れ」について、書籍を書いているのですが、AIの存在で目茶苦茶に調査するべき数字を得る速度が早くなりました。

こういう風にいうと、どっちも大事という平凡な結論に達するのですが、私はやはり、知識、というより哲学、生き方の確立のほうが先にあるべきだと思います。それがあってこそスキルの習得が意味をもちます。 その意味で、今の大学の一般教養授業はダメですが、もっときちんとした教養授業をカリキュラムにいれ、それが教えられる教育者も必要になってきます。
都知事選に出た安野貴博の造ったAIあんのは、一種の聖徳太子です。千人の人の言葉を同時に聞き、答えられるのですから。スキルでいうなら、そういうAI教養先生を造ることも大事ではないでしょうか。これは哲学という正解のない問題を扱うので、きわめて困難だと思いますが。

◼️ 教育が社会に果たすべき役割とは何でしょうか?



すべての基盤です。日本は江戸時代以来、元々教育が全般的に行き届いていましたから、西洋の植民地にならずにすみました。しかし、日露戦争後の軍部の教育はあまりに軍隊教育中心で一般教養を欠いたため、破滅に追い込まれました。 戦後、あれだけ日教組が、リベラル教育なるものをやったのに、出てきた政権は安倍政権であり、百田尚樹のファンたちです。その意味で、ちゃんとした人間が教師にならないと、何の影響ももてないことになります。日本の教育は全体的な大改革が必要な時代にきていると思います。

◼️ 教育を通じて社会全体の幸福を向上させる方法はあるのでしょうか?



幸福とは価値観だと思います。ですから、教育で価値観を押しつけることはできません。しかし、やってはいけないことを教えることはできます。人間は欠点だらけの動物です。人間のおかした過ち、愚行を、直視できる人間を育てることが、常識のある人間、自分本位の人間を造らない最後の砦になります。  

◼️ 才能や興味に応じた、個別最適な学びや教育は必要でしょうか?



必要だと思います。問題は、この生徒、学生の才能や興味のどこが世の中に有用であり、本人も人生を通して、がんばる意味がある興味なのかを、見付けてあげることができる教師がいるかどうかです。 そのためにも、先述したように、教師の下放、民間との交流人事、外部教師の採用などが必要になってくると思います。先生という職業は最初に先生を選ぶと先生にしかなれません。民間なら経理から営業までいろんな職種があり、公務員も少し硬くはなりますが、同様です。教師だけが、ずっと教師なのです。これでは、かなり困る世界観しかない教師しかでてこないと思います。

◼️ グローバルな視点での教育とはどういうものとお考えですか?



少し異なる話しからはじめます。私はいま、AI出版をやりたいという人々のアドバイザー的なことをやっています。AI出版が最大に変えるのは、翻訳本です。 今まで翻訳本は著者と、翻訳者双方に印税を払い、しかも、時間がかかりました。 しかし、現状、電子書籍だけなら、一週間で翻訳本を市場にだせます。ただし、小説などはまだ、翻訳校閲という新たな職業が必要でしょうが。技術本やタレント(セレブ本・ビジネス書)本なら、今すぐ可能です。 しかし、これが売れるかどうか。これを判断できるのは人間です。その意味で、日本人としての教養、日本語の能力を磨くことが、逆説的になりますが、絶対必要だと思います。

◼️ 人間性や倫理観の教育はどれくらい重要でしょうか?



もちろん、重要ですが、これは「学校」という狭い社会で実現しようとするのは不可能ではないでしょうか。本来、家庭がやるべき人間性や倫理観の教育を学校に押しつけようとする保護者に、多分、若い教師は苦労しているでしょう。保護者がやるべきことは保護者がやる、ということを宣言してあげることのほうが大事なような気がします。先述した部活や外部教員との接触も、人間性を磨くのに大いに役立つと思います。 一方で児童相談所や子供食堂など、極限にある家庭や崩壊しかけた家庭への支援に多くの人材をさく。その度胸が教育経営者、校長には必要になってくると思います。

◼️ 教育を通じて、どのようにクリティカルシンキングを養うことができますか?



総じて、日本の教育はクリティカルシンキングが苦手なようです。編集者やジャーナリストは常にクリティカルシンキングをしないと食べていけない職業なので、もう少し雑誌などのプラン会議に近い、ブレスト的授業をしたらどうでしょうか。 私は、一年生にマスメディア論という授業をしていましたが、これは、次週のテーマも学生が決め、資料は私が前日にデータで渡し、学生が私に質問するか、学生が、自分たちで議論するかで終わるという、私的には理想の授業をたった一年でしたができた教室がありました。きっかけは安倍総理暗殺です。安倍総理が育った時代、つまり私が育った時代の、学生運動や、高校でロックアウトがあったなど、今の高校生には考えられない事件をパワボで連続してみせて、質問に答えているうちに、自然と、「先生次回はウクライナ戦争を!」と求めるようになりました。 女子大レベルの学校でも、こういう授業ができるんだと面白くなりました。とにかく教壇の上から、知識を教えるのではなく、あらゆることに疑問をもち、その解決方法を探り、議論して結論をだすという作業を、授業だけでなく、学園祭の運営などにも多用して、考える力をつけさせることだと思います。これも採点しないことがいいと思います。考えは自由であり、多様であり、それに正解はないと思うからです。

正解がない世界に、正解しか知らない先生が多すぎる。


厳しいことをいうようですが、正解がない世界がほとんどなのに、正解しか知らない先生が多いから、クリティカルシンキングを多用する授業ができないのではないでしょうか。

学生時代からやっておかないと、教師になってからではできないように思いますし、教師志望の子、あるいは教師志望の学生への教育が、正解だけの教育なので、そういう結果になるように思います。

私がいた女子大では、一応国語コースの先生という区分けでしたが、国語の先生志望の学生ほど読書をしたことがない。嫌い。どんな本を読めばいいかという質問がおおかったことに驚いていました。つまり、親が教師になれといい、従ったのはいいが、英語や数学はなれそうにない。だから、国語ならなんとかという教師志望者が多かったのです。

カリキュラムにも問題があると思いました。古文、漢文、文学史、現代国語と細切れで、ちゃんと国語あるいは国文学を好きになるようになっていません。私は日本語文章表現の基礎という授業でしたが、全部恋文。毎回10通以上の有名人の恋文をみせて、その中から自分がほしい手紙をえらんでその理由を書くというスタイルです。そして、部分部分ですが、ほとんど全員の作文のいいところをパワボにいれて、一位を決めるという作業にしました。添削は一切しません。 添削がないとわかると自由な作文をみんな書き始め、しかも、友人が全然趣味がちがうことに気づき、あるいは名文家であることに気づき、他人の作文をまねしたりして、どんどん全員が上手になってゆくのがわかります。 川端康成が中学で国語が下から二番だったというのは、日本の教育の恥じであることを、まだ学んでいないのだと思います。
自画自賛で恥ずかしいのですが、これは、とある企業の名物教授紹介という動画で、いまもyoutube でみられます。そのあと、みた高校生が、研究室訪問で、私の研究室を一回50人程度で遠隔授業をします。私は5回か6回。高校生と接しましたが、自由にものをいわせれば、なかなか面白い子はたくさんいて、まだラインで時折進路相談をうけたりします。

◼️ 知識の量と質、どちらを優先すべきでしょうか?



基本的な質問ほど、答えるのが難しい質問になりますね。
私は、中高一貫校で、成績は数学がずっと最下位。歴史と国語は、ずっと最上位という極端な学生でした。

数学については➀基本的に怠け者であったことは認めます。物理はできたので、論理的思考ができないわけではなかったと思います。②自分なりに考えると、算数の授業で林檎がひとつ、蜜柑がひとつ、合計で何個ですかという質問がずっとひっかかっていて、それは一個と一個であって、絶対二個ではないと教室で言い張ったことからでした。

それでも小学校くらいはなんとかなりましたが。それに、進んだ道は、編集者で足し算、引き算ができれば十分で微分も積分もいりません。やはりWANTの問題になるのではないかと思います。

大学を出て、「数学はなぜ必要か」という本を読みました。数式は一切ありませんという帯につられて買った本です。 その中で、空海や最澄は微積分やタンジェントの計算ができたという記述がありました。彼らは仏教やサンスクリット語を学んだだけでなく、数学を学び、高度な建築学を学んだから東大寺が建てられたというのです。 どうして、それを先生は小学校一年生のときにいってくれなかったのかと思いました。たしかにモノをつくりたいと思えば絶対に必用な知識です。  

私個人の例は極端ですが、やはり、何のためにこれを勉強するのか。それがないと必要な知識の量も質も変わってくると思います。もちろん、最低限、これからは必要な知識はあるでしょうが、AIの出現で、プログラミングの必要がなくなったり、世の中見通せません。もう七十にあと一年になりましたから、そこまでは悩む必要はないのかもしれませんが、若い人にふれて、いつも勉強はしておきたいものです。 「採点しないことがいいと思います。考えは自由であり、多様であり、それに正解はないと思うからです」という発言が印象的でした。不確実な時代だとこれだけ世の中で叫ばれているにも関わらず、どうして今日も教育の現場は採点主義なんだろうか、と考えさせられます。 ITもAIも、テクノロジーはあくまで手段であり、目的や本質的な教育のあり方を定義していくことが先に議論されていくべきだと再認識しました。

(取材者:編集部・鈴木)

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