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教育に必要な新しい価値観は「混ざる」こと
デジタル庁統括官 国民向けサービスグループ長 村上敬亮さんに、人口減少時代の都市や地方創生への取り組みの中での教育の役割や、教育で重視されるべきデジタルやテクノロジー活用の方策、求められる人材についてお話を伺いました。
多様性と共感力がカギ! 教育に必要な新しい価値観は「混ざる」。
Q 人口減少時代の都市や地方創生への取り組みの中での教育の役割。またその教育の中で重視されるべきデジタルやテクノロジー活用の方策。そして求められる人材について、どのようにお考えになられていますでしょうか?
(村上さん)人口増加しているときの行政は、道路が足りない、先生がいない、上下水道が必要だ、公民館ちゃんと整備しなきゃ、といったように、各分野の行政サービスの供給不足が心配になります。だから、わき目を振らずに各リソースを増やしていくことが必要だったわけです。
しかし、これからは人口減少の時代になります。需要も減る。それに応えるサプライヤーも減る。こうなってくると、例えば、学校と公民館を一緒にするなど学校空間を教育以外の分野にももっと使ってもらおうか、もっと民間人材に直接教えていただく機会をふやそう、といったような考え方が必要になってきます。教育自体も、学びの多様化に対応し、いろんな人との教え合い、学び合いの機会を増やすことが求めれています。。つまり「混ざる」方向に行くんです。
昭和の時代の日本人は、一旦どこかの大企業に就職すると、徹底してその企業の企業文化を叩き込まれ、場合によってはその事業部の事業文化を叩き込まれ、それぞれの中で一流の企業戦士に育っていきます。しかし、それでは、その部門、その企業でしか通用しないスタイルししか育たない。
これからは、異なる流儀の企業選手がどうやって協業できるか、異分野の人とどうやってともにプロジェクトを成功に導けるかが問われます。24時間365日、常に行動を共にしていれば、改めてデジタルだデータだと言わずとも互いに通じる部分はたくさんあるでしょう。しかし、違うバックグラウンドの人たちと連携しコンセンサスをとりながら、プロジェクトを前に導く力を育まないと、今ある我が国の技術もノウハウも、下手をすると全部が宝の持ち腐れに終わっていく時代になってしまいます。
多様性、むしろ異文化交流の方が近いのかもしれませんが、バックグラウンドや考え方が違う人のことを面倒くさがるのではなく、積極的に面白がり、その中から全体としてのビジョンを導きだし、みんながそれに共感できる、リードする方だけでなく、リードされる方にも、高い共感力が求められる時代になるでしょう。
言い換えると、今後は、多様性に馴染み、高い共感力を保持することが、テクノロジー活用の大前提になる時代になるのかもしれません。スペシャリストとしての能力だけなく、プロマネやコミュニケーション能力などのジェネラルな部分を強化していくことが、更に様々な方々に求められていくと思います。そして、そうした人材の育成が、教育課程の段階から求められることとなり、多様性に寛容で、柔軟なマインドを持つ教育者が導いてくれるような教育環境が一層必要とされていくのではないでしょうか。
ミクロの結果を集約し、マクロ視点でオブザーブできる人材が必要。
Q教育に関する地域幸福度Well-Being指標は、教育テックの活用によって向上が期待できますか?
(村上さん)はい、本当に期待しています。そのためにも、ぜひ全体を俯瞰できる人を上手に育てたい。
昭和の時代の市長さんは、道路不足、学校不足、下水道不足などの課題に対し、担当部門にその解消をミッションとして投げますよね。そういう意味で市長というのはマクロなデザイナーです。その下で、市長のミッションを受け取った部長さんや課長さんは、各部門のミクロのデザイナーとして、じゃあ水道事業はどうしようか、じゃあ教員不足はどう解消しようか、考えていきます。
(ISOの定めたWell-BeingのPDCAサイクル標準用語で説明すると)マクロなデザイナーから発注を受けたミクロのデザイナーがサービスを提供して、それを受け取るリセプター、すなわち市民がいるわけですね。
その市民が受け取った事業について、教育長、土木部門長など各部門のミクロな結果をオブザーブする人がいて、各事業のPDCA評価はするのですが、肝心かなめの、それでまちづくりに対する市民の主観的満足度は本当に向上したのか。そのマクロのレビューがないのです。だから作りっぱなしになっていく。供給不足の時代はそれでも良かったのですが、人口減少の時代になると、仕事の仕方を変えなければなりません。個々の事業の評価じゃなくて、マクロで見て本当に市民は我が街に満足しているのか、そこをオブザーブしていかないと、ただ作りすぎても、問題は何も解決しないのです。
教育の場合も一緒で、各学校のパフォーマンス評価の一環として、それぞれの個人の成績や進学実績が問われることがありますが、教育の質全体ということになると、突然、現場から話が遊離して一般論が始まってしまいます。言い換えると教育政策は一体何で成功を図るんですか?ということで、実は、各現場には、その手段がないんですね。
Q ミクロの部分最適化していく中で、全体最適視点がなくなっていくものを、ちゃんとレビューするためのクライテリアとしてのデジタルとかの役割があるわけですね?
(村上さん)そうだと思います。これは別に教育に限らず、Well-Being指標全体に対しやるべきことです。現在、たいがいの行政事業には、さしたる根拠なく行政自身が設定した事業KPIが存在します。学校をいくつ作るとか、ポイントアプリ作ったらユーザー数を増やすとか。でも、そこで評価が終わってしまうんですよね。それで本当に、教育への満足度は上がったのか、次に続く手段がないために、事業別評価という手段が自己目的化してしまっているという感じです。
簡単に言うと、もっと混ざれ!
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Q 幸福度のスコアを見ると、都会はポイントが高く、地方は低いという状態ですが、テクノロジーやデジタルの力で改善していくことは考えられますか?
(村上さん)すごく簡単に言うと、域内外の人材がもっと混ざれと。僕は、移動コスト下げるのが一番簡単じゃないかと思うのですが、移動コストと居住コストが下がれば、教える人も教わる人も、もっと混ざります。地域が地域の人のまま、どんなに事業を考えたって、知見や比較対象が圧倒的に足りない。そもそも客をどこから引っ張ってくるかが見えていない地域に対し、補助金を用意しても何も起きない。街自体にも学校にも、もっと多様性を生み出し、何がしか新しいことをはじめて、地域内部で違和感のない状況を作ることが大切です。実は、そのための大義名分って、地域の高等教育が一番作りやすいかもしれません。まずは、山古志村のデジタル村民がそうであるように、住民票はそこにはないけど、熱心に街のことに取り組んでくれる第二市民やデジタル市民をもっと増やせばいいのでは?無理に移住にこだわるよりも、地域の人なのか東京の人、どっちかわからないってくらいが理想です。そういう人をもっと増やしたい。そのとき、そうしようとすると、オンラインの会議、デジタルでのデータの共有を行う機会が、自ずと増えてくるはずです。デジタルが改善するのではなく、改善がデジタルを必要とする。だからこそ、デジタルの前にまず、現場で、様々な形で、「混ぜる」ことを大切にしたら良いと思っています。
Q教育テック大学院大学のような教育分野の経営・IT人材育成の学校について、ご意見をお願いします。
教育という分野の中で、特殊学校と普通学級との間の学校は必要ではないか?フリースクールを整備するべきか?等、いろんなアプローチがあると思いますけど、そのアプローチ自体をマクロに評価する手法がないんです。Well-Being指標を起点として語る教育というのは、“そもそも誰がやるんだ”というところまで含めて、不在になっているマクロのレビューを、一体どういうふうに進めていくのかを考えていかねばならない。教育テック大学院大学では、まちづくり、子育て環境作りをどうやってトータルに評価するのか、新たにこの部分の研究も深めていただけるとありがたいなと思います。
(取材者:編集部・鈴木)