「やる気」を出す方法を科学的に考察する
朝目覚めたその瞬間、その日の不調に気がつくことがある。
身体が妙に重く、頭がぼんやりとし、布団から出るのも億劫だ。
今日1日を始めるためのエネルギーが自分にあるのかさえ怪しい、そんな朝がある。
とりわけ、30代後半から増えた気がする。老化の一つの側面なのか、睡眠などの間接的影響なのかはわからない。
しかしそんな1日も、仕事に育児にと忙殺されているうちに、いつの間にかエンジンがかかり、その日の終わりには心地よい疲れとともに眠ることができるのが常である。
「やる気」の出し方を教えてください
精神科医としてよく尋ねられる質問である。
先の例でも示したように、やらざるを得ないことをやっている間に、いつの間にやらエンジンがかかっているというのが実感的にも、科学的にも正しいのである。
まず最初に体を動かす。すると、やる気、つまり意欲が出てくる。
ここまでは理屈としてなんとなく理解できる。
しかし、物事を楽しんだり、達成感を覚えるための「やる気」という意味では、物足りない。
こなすことはできるけど、やる気が出ているわけではない。そういう反論が出てくるだろう。
一方で、やる気は、まるで眠りから目覚めるように、ある瞬間にぐっと湧き上がることがある。
それは、新しいプロジェクトを始める時の高揚感や、長年の夢を実現させようと決意した瞬間の胸の高鳴りといった形で現れる。
しかし、やる気の本質は、その瞬間的な高まりだけではない。
それを維持し、次の行動へと連鎖させていく力こそが、真のやる気の姿なのだとわたしは思う。
科学的に見れば、やる気の正体はドーパミンという神経伝達物質だ。
しかし、ここで興味深いのは、このドーパミンが単純に快楽や報酬に反応するのではなく、「報酬予測誤差」という現象に関連して分泌されるという点だ。
つまり、予想外の報酬や、予測が難しい結果に対して、より強く反応するのである。
この洞察は、人間の動機づけに関する従来の理解を覆すものだ。
私たちは、報酬の予測可能性が低い、あるいは不確実な対象に対し、より強いモチベーションを感じる傾向がある。つまりドーパミンの分泌量が増える。
例えば、ギャンブルに熱中する人々や、困難な挑戦に魅了される起業家や冒険家たちの姿は、この原理を如実に表している。
しかし、この知見は日常生活にも適用できる。
例えば、毎日同じルーティンをこなす仕事に飽きを感じている人がいるとする。
この場合、タスクに小さな変化や挑戦を加えることで、予測不可能性を導入し、やる気を喚起することができるかもしれない。
あるいは、学習において、固定的なカリキュラムではなく、学習者の進捗に応じて難易度が変化する適応型学習システムを導入することで、持続的なモチベーションを維持できる可能性がある。
個人としてのやる気、社会システムとしてのやる気。このいずれに対しても「報酬予測誤差を生む」という視点でのアプローチが有効な可能性が高い。
ここでのキーポイントは
いかにして予測可能性の高いものにいかにして不確実性を与えるか
ということだ。
そのためには、それぞれの状況や個人に合わせた「物語」が必要となる。
つまり、単調な作業や習慣的な行動の中に、新たな意味や目的、あるいは予想外の展開の可能性を見出すことが重要なのだ。
例えば、日々の運動を単なる健康維持の手段としてではなく、「1年で地球一周分を歩く」という挑戦に置き換えることで、新たな不確実性と興奮をもたらすことができる。
毎日の歩数が世界地図上のどこに到達するかという予測不可能性が、継続の動機となるのだ。
あるいは、語学学習を単なる単語暗記ではなく、「100日後に外国人と会話する」という具体的な目標に結びつけることで、予測不可能な成果の可能性を感じさせることができる。
日々の学習が実際の会話でどう活きるか、その不確実性が学習意欲を高めるだろう。
このように、予測可能性の高いものにいかにして不確実性を与えるかがキモであり、それぞれの状況に応じた物語が必要となる。
日常の中に適度な不確実性を取り入れることで、持続的なモチベーションを維持し、より充実した人生を送ることができるのだ。
さて、そろそろ結論といこう。
やる気の本質は、予測不可能性と密接に結びついている。この認識は、個人の成長や組織の発展、さらには教育システムの設計にまで及ぶ広範な影響を持つだろう。
私たちは、日常の中に適度な不確実性を取り入れ、常に新たな可能性を探求する姿勢を持つことで、持続的なモチベーションを維持し、より充実した人生を送ることができるのではないだろうか。
やる気は確かに存在する。それは、私たちの脳内で紡がれる予測と現実のギャップから生まれる。
人間特有の素晴らしい能力なのだとわたしは思う。