自らの予言に飲み込まれた天才〜精神科医・石田昇の栄光と悲劇〜
「事実は小説より奇なり」
使い古された言葉だ。しかし、私は精神科医としてある大先輩の人生を紹介せずにはいられない。自らの予言に飲み込まれた天才、その劇的な人生、栄光と悲劇について語りたいと思う。
序章:予言者の逆説
明治39年、一冊の教科書が日本の精神医学界に衝撃を与えた。『新撰精神病学』、その序文には後に著者自身の運命を予言することとなる痛切な言葉が記されていた。
「精神病は社会のすべての階級を通じて発言するところの深刻なる事実なり。いかなる天才、人傑といえどもいちど本病の蹂躙にあわば性格の光、暗雲の底に埋もれ、昏こんとして迷妄なる1肉塊となりおわらざるものまれならむ。狂して存せんよりはむしろ死するの勝れるを思う者ある。まことに憐むべきなり」
この言葉を記した石田昇は、当時、わずか30歳である。日本の精神医学界で最も輝かしい未来を約束された新進気鋭の精神科医だった。この言葉が、後の自身の人生を描き出すことになるとは知る由もなかった。
第一章:名門の血を引く逸材
1875年(明治8年)、宮城県仙台市に一人の男子が誕生した。石田昇である。
彼が生を受けた家は、代々仙台藩の藩医を務めてきた名門医家だった。
父の眞(まこと)は、東京大学医学部の前身である大学東校を卒業し、後に東北大学医学部の礎となる共立社病院を創設した人物だった。その血筋は、石田家の子供たち全てに卓越した才能として開花することとなる。
石田家の子供たちの活躍は、まさに明治という新時代を象徴するものだった。弟の基(もとい)は東京帝国大学法学部を卒業し、「鬼検事」の異名を取るほどの存在となる。他の兄弟たちも、サッポロビールの取締役、昆虫学者、農学博士、大学教授と、それぞれが各界で頭角を現していった。
仙台藩の藩校だった東二番丁小学校から学問の道を歩み始めた昇は、やがて第二高等中学校(仙台二高)へと進学。19歳で熊本の第五高等学校大学予科に入学した彼を待っていたのは、運命的な出会いだった。
同級生には後に精神医学界の重鎮となり、現在も「森田療法」として知られる治療の開発者である森田正馬がいた。また、英語教師として夏目漱石が在籍していた時期でもあった。
漱石は昇の直接の担当教師とはならなかったものの、この時期の漱石自身が、妻の流産や投身自殺未遂、父の死などにより深刻な神経症性の症状に苦しんでいたことは、後の昇の人生に重なる影として興味深い。漱石は後に呉秀三の診察を受けることになるのだが、この呉秀三こそが、後に昇の重要な師となる人物だった。
第二章:才能の開花
東京帝国大学医学部に進学した昇は、卒業と同時に、93人の同期生の中でただ一人、精神病学教室への入局を選択する。今でこそ精神医学の道へ進む若い医師は少なくないが、当時、精神医学は医学の世界では特異な位置づけにあった。多くの医師が敬遠するなか、昇はむしろ積極的にこの道を選んだのである。
その才能は医学の枠に留まらなかった。在学中から、雄島はまたろう(宮城県の松島にある島から命名)という筆名で「ドンキホーテ」の翻訳本を出版し、様々な詩や短編小説を手がけるなど、文筆家としても頭角を現していた。そして、8歳年下の秀(ひで)という美しく聡明な女性と結婚。人生は順風満帆に思われた。
巣鴨病院での助手時代、昇は東京大学精神科第3代教授・呉秀三の下で研鑽を積んだ。呉秀三は「精神医学の父」と呼ばれるドイツのエミール・クレペリンの下で学び、日本の精神医学用語の約9割を生み出した博学多才の人物である。同僚には森田正馬、後の第4代教授となる三宅鑛一、そして夏目漱石の『吾輩は猫である』に登場する甘木先生のモデルとなった尼子四郎がいた。
昇の真摯な学究姿勢は、時として激しい議論を生んだ。漢学者でもあった呉秀三とは、カルテの用語や使用文字について白熱した議論を交わすことも少なくなかった。
そんな昇が30歳にして著したのが、『新撰精神病学』である。日本で最初のクレペリン体系による精神医学教科書は、250ページに及ぶ大著となった。半年という異例の速さで再版され、その後も版を重ねていく。さらに、現代でも知られるSchizophrenieの訳語「分裂病」(2002年に「統合失調症」と改称)を生み出したのも昇だった。
この輝かしい業績により、昇は32歳という若さで長崎医学専門学校の初代教授に抜擢される。(2代目教授は歌人としても知られる斎藤茂吉である)誰もが、彼の前に広がる輝かしい未来を確信していた。
第三章:長崎での革新
長崎医学専門学校初代教授就任。この人事は、当時の医学界に小さからぬ衝撃を与えた。わずか32歳という若さでの教授就任は異例中の異例だったが、それは石田昇の卓越した才能を示す何よりの証拠でもあった。
長崎での昇は、単なる研究者に留まることを良しとしなかった。新設された県立病院精神科病棟に、当時の巣鴨病院をも凌駕する最先端の精神医療施設を作り上げたのである。その施設づくりには、彼の革新的な医療理念が如実に反映されていた。
当時の精神科医療といえば、患者を檻に入れ、厳重な監視下に置くことが一般的だった。多くの精神病患者は暗い座敷牢に閉じ込められ、あるいは隠し地下牢に繋がれる存在でしかなかった。そんな時代に昇が目指したのは、フランスの精神科医ピネルが提唱した無強制主義医療だった。
開放治療、作業療法、現代では当たり前となったこれらの治療概念を、昇は早くも100年以上前から実践していたのである。それは単なる治療に留まらず、精神障害を持つ人々の社会復帰、リハビリテーションまでを見据えた、極めて先進的な取り組みだった。
第四章:米国留学と悲劇の序曲
1917年、42歳になった昇は国費留学生として米国へ渡る。目的は作業療法を含む精神障害者のケア方法と精神医学全般の研究。留学先として選ばれたのは、当時世界最高峰の研究機関の一つ、ジョンズホプキンス大学だった。
指導教官となったアドルフマイヤーは、クレペリンやブロイラー、フロイトと同時代を生きた米国精神医学の父とも呼ばれる存在。昇の卓越した才能は、ここでも高く評価され、米国医学心理学協会の日本人初の名誉会員という栄誉に輝く。
しかし、栄光の絶頂で、悲劇は突如として訪れた。
1918年、昇は同僚医師ウォルフを射殺する。
事件当日、二人は普段通り朝食を共にし、スタッフ会議に出席していた。会議中、ウォルフが退席したのを追うように昇も席を立ち、廊下で二発の銃弾を放った。
事件の背景には、昇の深刻な妄想があった。
「病院の婦長が自分を愛している」
「ウォルフがその婦長を奪おうとしている」
「自分を不利な立場に追い込もうとしている」
そして最後には「ウォルフは日米の仲を裂く国の敵だ」という壮大な妄想へと発展していった。
後の調査で、昇はすでに深刻な幻聴に悩まされ、毎週のように下宿を変えていたことが判明する。
アメリカ精神医学の父、アドルフマイヤー自身が精神鑑定を行い、精神障害の存在は認めながらも責任能力ありと判断。第一級殺人罪で終身刑が言い渡された。この判断には、当時の国際情勢や米国内での被害者感情が影響したとも言われている。
5年の服役の後、病状の悪化により州立精神科病院へ移送。その後、病状が回復すれば再び服役するという条件付きで帰国が許可された。
しかし、帰国の船上ですら、昇の症状は顕著だった。
「天からの声でボーイに一食二ドルのチップをあげろと命令された」
と同行者に金を要求し、46時間にわたって絶え間なく話し続けるなど、その様子は明らかに常軌を逸していた。
第五章:松沢病院での転落
1925年、石田昇は松沢病院に入院した。
かつて自らが医師として診察した病棟に、今度は患者として収容される
この逆説的な運命は、彼が著した教科書の序文の予言そのものだった。
松沢病院での15年に及ぶ入院生活は、精神医学のまさに教科書そのものを体現するかのようだった。幻聴や独語空笑は日常的となり、緊張病症状を繰り返す。
「おれは神だ」
「おれはクレペリンよりえらい」
「世界は自分の説を支持している」
このような誇大妄想は、かつての謙虚な天才の面影を完全に覆い隠していた。奇異な独語を発しながら、空間に向かって礼拝を繰り返す姿は、病棟の風景の一部となっていった。
興味深いことに、同時期に入院していた「葦原将軍」という著名な患者との間に独特の関係性が生まれた。葦原は昇を「将軍付医官」として遇し、昇もまたその役割を演じた。専用の執務室と秘書が与えられ、詔勅の発行や記念写真の配布など、奇妙な儀式めいた日々が続いた。
この間、妻の秀(ひで)は驚くべき献身を示した。
仙台の土地や屋敷を次々と売り払い、治療費を工面し続けた。
毎月仙台から面会に通い続けた彼女の姿は、病院スタッフの心を打った。
しかし、昇本人は誰もそばに寄せ付けず、その姿は日に日に変貌していった。
1940年、結核により64歳でその生涯を閉じるまで、昇は松沢病院で15年の歳月を過ごした。巣鴨病院時代までは何の異常も見せなかった彼が、なぜ米国留学を機に発症したのか、その謎は、今も医学史の闇の中にある。
第六章:封印された記憶
石田昇の存在は、長らく日本の精神医学界でタブーとされてきた。その沈黙を破ったのは、元東大精神科教授の秋元波留夫である。
後に麻原彰晃の精神鑑定も担当することになる秋元は、若き日に神田の古本屋で偶然手にした精神医学の本に魅了され、精神科医の道を選んだという。そして運命の巡り合わせか、松沢病院で担当することになった患者の中に、その本の著者である石田昇がいたのである。
石田家の悲劇はこれに留まらなかった。先述のように、弟の石田基は、東京地検の検事として前例のない昇進を遂げた「鬼検事」として知られた。しかし、田中義一総裁の陸軍機密費問題を徹底的に捜査している最中、43歳の若さで鉄橋下の小川で変死体として発見される。解剖すら許されず、その真相は闇に葬られた。後に作家・松本清張が『昭和史発掘』でこの怪死を取り上げることになるが、謎は今も解かれていない。
結章:光と影の狭間で
石田昇の劇的な人生は、精神医学の歴史に深い教訓を残した。1952年にクロルプロマジンが発見されるまで、精神疾患に対する有効な治療法は存在しなかった。つまり昇は、自らが研究し尽くした病に対して、なすすべもなく蝕まれていったということである。
かつて彼が「新撰精神病学」で記した症状や治療法は、その後の精神医学の発展の礎となった。しかし皮肉にも、彼自身はその治療の恩恵を受けることなく、暗闇の中で生涯を終えることになった。
長崎大学医学部第6代教授の中根允文が記した『ある精神医学者の一生』は、この稀有な存在を後世に伝える貴重な記録となっている。そこには、天才的な精神科医が自らの病と向き合い、そして飲み込まれていく姿が克明に描かれている。
石田昇の生涯は、精神疾患が才能や意志の力を超えて人を襲う可能性を示す、痛ましくも示唆に富む歴史的事実として、現代に生きる我々に重要な問いを投げかけ続けている。
「いかなる天才、人傑といえども」という彼自身の言葉は、その生涯を通じて証明されることになった予言であり、同時に現代の精神医療に対する警鐘でもある。