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戦禍の街に咲く善意の花〜ステファンの涙とモスタルの記憶〜

ボスニア・ヘルツェゴビナという美しく、悲しい国の話をしたいと思う。

ユーゴスラビア紛争の爪痕をもっとも色濃く残す街「モスタル」に、ホステルゴールデンブリッジという安宿がある。

朝霧の立ち込める早朝、荷物を預けようとその宿へ向かった私を、初老の宿主の男性ステファンが思いがけない温かさで迎え入れてくれた。

「チェックイン時間になってない?何を言ってるんだ?ようこそ!しゅん、お前のためなら今すぐにベッドを用意する」。

その言葉には、純粋すぎるほどの善意が満ちていた。

リビングルームには世界各地から集まる旅人が寛いでいたが、ステファンは彼らにむかい「この最高の笑顔の日本人はしゅんだ、彼はkingだ。みんなよろしく。しゅん、彼はチリ人のカミーロだ。皆家族だよ、もちろん君も今から家族なんだ」と物凄い勢いで喋り倒す。

その後もステファンは忙しく立ち回る。

コーヒーは飲むか?ほら、これはカミーロのビールだ、朝だけど飲むだろう?
そういって、苦笑いするカミーロのビールをついで寄越す。かと思えば急に掃除機をかけ始め、避けようとする私たちを制止し大丈夫、他のところをちゃんと掃除するからとおどけてみせる。

その後もややくどいくらいの調子で困っていることはないか、俺に全部任せろなんでもするよ、当たり前だろ、俺はしゅんの全てをリスペクトすると語り大いに笑う。

そんな温かさに触れて異国での警戒心はあっという間に消え去り、宿に泊まる旅人たちは即座に打ち解けあった。

チリ、イスラエル、イタリア、スペイン、韓国。

世界のあちこちから集まった旅人だが、表面上の挨拶ではわからない苦悩があるだろう。

話題がカタルーニャ独立問題に及んだとき、これまで陽気だったステファンは真剣な面持ちで、驚くほど静かに「争いは何も生まない、人は皆ファミリーなんだ。話し合いを続けなくてはいけない」と一言だけ呟いた。

そして「な!kingしゅん!俺は全てのカルチャーを尊敬しているぞ!もちろん日本も大好きさ、アリガトウゴサマイマス」といつもの調子でおどけた。

楽しい夜は過ぎ、疲れてすぐ寝てしまったためその後のことはわからない。


明朝7時のバスに乗るために6時に起き、リビングへ。

すると、私のためにコーヒーが用意されている。

「しゅん、お前のためにおいしいコーヒーを用意したぞ、全部お前のものだ!サンキューなんて言うな!これは俺がしたくてしてるんだからな!」と。

ベッドに横たわりながら下の階のリビングの物音には気付いていたが、そんなに早くから起きて準備をしていてくれていたとは。

そして別れの時。「楽しかったから宿代はいらない」と言い張るステファンになかば押し付けるように僅かながらの宿代を渡す。

いつかまた会えるといいな!お前の安全を祈っているよと陽気に語る彼に「俺はステファンが大好きだよ あんたのおかげでボスニアヘルツェゴビナがもっと好きになった」と気軽に答えた。つもりだった。

すると、みるみるうちに顔つきが変わり、うつむくステファン。そして「ほらほら!時間がないぞ!早くいきなさい」と言った。 まだ薄暗い早朝の玄関先で確かにその陽気な初老の男性は涙を流していた。

きっと二度と会うことのないその友達に背を向けて、私はバス停へと向かった。

今振り返ると、リビングルームにある世界中の様々な文化の混在した雑多な調度品の中にたった一つだけモスタルに関するものがあった。

それは、内戦で破壊され、火の手があがる街と、血が流れているスタリモスト(モスタルを代表する橋)の絵だった。 20数年前に彼の前にどんな残酷な出来事があったのか。平和慣れした頭では到底想像もできないが、1つだけ言えることがある。

どんな悪意を受け、どんな悲しみを背負っていたとしても人は人に対して優しく接し、誠実でいることができる、ということ。

そんなことをいまさら、身に染みて実感した。 人が心を動かされるとき。そこには時間は必要ではないのだろう。たった1日の出会いだったが、彼から多くのことを学んだ。

ステファンありがとう。そしてさようなら。

モスタルの朝霧の中に、あなたの優しさだけが残っていく。

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