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私たちは皆、見えない傷を抱えている

私の右手、親指の付け根には、長さ4cm程度の傷痕がある。

若気の至りというやつだ。20歳の頃、交際していた女性との痴話喧嘩で自分を抑えられず、怒りを部屋の扉にぶつけてしまった。扉の中央のスリ板ガラスが割れて、私の皮膚を切り裂いた。

今思い出すだけでも耳が赤くなるのを感じる。
私が私用で救急車に乗ったのは後にも先にもこの日だけなのだ。

私たちの体に刻まれる傷痕は、単なる過去の痛みの痕跡ではない。

それは生きてきた証でもある。人生には色々な側面がある、そのことを動かぬ証拠として身体に刻み込むのもまた傷痕だ。

カトマンズの路上で出会った二人の男性—傷頭の男性と、下半身を失った物乞いの—は、傷の持つ複雑な意味を私たちに問いかける。

ところで、「真の弱者は救いたい姿をしていない」という言葉を目にしたことがあるだろうか。

特権ともなりうる「見える」傷

確かに現代社会では、「見える傷」を持つことは、ある意味で特権となり得る。

それは自身の経験を社会に対して説明する必要のない「パスポート」となるからだ。たとえばバックパッカーの頭の手術痕は、彼が何らかの重大な試練を経験したことを雄弄に語る。

しかし、この「可視性」は両刃の剣でもあるだろう。

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