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私たちは皆、見えない傷を抱えている

私の右手、親指の付け根には、長さ4cm程度の傷痕がある。

若気の至りというやつだ。20歳の頃、交際していた女性との痴話喧嘩で自分を抑えられず、怒りを部屋の扉にぶつけてしまった。扉の中央のスリ板ガラスが割れて、私の皮膚を切り裂いた。

今思い出すだけでも耳が赤くなるのを感じる。
私が私用で救急車に乗ったのは後にも先にもこの日だけなのだ。

私たちの体に刻まれる傷痕は、単なる過去の痛みの痕跡ではない。

それは生きてきた証でもある。人生には色々な側面がある、そのことを動かぬ証拠として身体に刻み込むのもまた傷痕だ。

カトマンズの路上で出会った二人の男性—傷頭の男性と、下半身を失った物乞いの—は、傷の持つ複雑な意味を私たちに問いかける。

ところで、「真の弱者は救いたい姿をしていない」という言葉を目にしたことがあるだろうか。

特権ともなりうる「見える」傷

確かに現代社会では、「見える傷」を持つことは、ある意味で特権となり得る。

それは自身の経験を社会に対して説明する必要のない「パスポート」となるからだ。たとえばバックパッカーの頭の手術痕は、彼が何らかの重大な試練を経験したことを雄弄に語る。

しかし、この「可視性」は両刃の剣でもあるだろう。

見える傷を持つ人々は確かに、社会からの理解や共感を得やすいかもしれない。支援や配慮を受けやすい場合もあるだろう。傷痕は、自身の経験を語る際の「証拠」となり、他者の支援を受けやすいかもしれない。

一方で、常に自身の過去を曝け出している状態に置かれることで、社会からのラベリングや偏見にさらされる可能性は高い。また、好奇の目に晒されることもあり、プライバシーを保つ選択肢が限られる。

不可視の傷を抱える現代人

ただ、誰もが目にみえる傷痕を抱えているわけではない。
より深刻な課題は、現代社会に蔓延する「見えない傷」の存在なのかもしれない。

精神的なトラウマ、社会的な疎外感、経済的な困窮—これらは外見からは判断できない苦痛である。

心の痛みは身体の痛みと同等に、時にはそれを上回る苦痛をもたらすが、説明が難しく、痛みの証拠を出すことはできない。
存在することと、それを認識することの深い溝がここにも存在する。

「見えないもの」に対する社会の無理解は仕方のない一面もあれど、支援の受けづらさを改善する必要性は一層、強調せねばならないだろう。

傷痕がつなぐ共感〜私たちは分かり合えるか?〜

傷頭のバックパッカーの行動が示唆するのは、傷を持つ者同士の無言の理解だ。自身の傷跡が、他者の痛みに対する感受性を高めたのかもしれない。

これは現代社会が失いつつある「共感による連帯」の可能性を示していると私は思う。

私たちは、目にみえる傷痕だけでなく、誰もが目に見えない傷痕を抱えている。そのことを認識すること。

私たちは誰もが傷頭の男であり、誰もが脚のない男なのかもしれない、

そう考えると、私たちは傷を持つ物同士、無言で理解し合える日が来るのではないかと期待しないでいられない。

その先にあるのは、思いやりを示す行動と、深い感謝の気持ちだと私は思う。

治癒の過程としての傷痕

更に、傷痕というものは単なる「損傷の痕跡」ではない

私は自身の古傷を眺めるたびにこう思う。

よく生きてきたもんだ。そして、あの頃よりもずっと成長したんだな。

どこか気恥ずかしい思いと共に、今の成長を喜ばしく思う気持ちが湧いてくる。

現代社会に必要なのは、傷跡を「欠陥」としてではなく、「経験の証拠」として捉え直す視点かもしれない。

物理的な傷であれ、精神的な傷であれ、それらは私たちの人生の重要な一部を形成している。人生の「物語」にしていく視点が大切だと思う。

傷痕の意味を見つめ直す

傷痕という視点から現代社会を見つめ直すとき、私たちに求められているのは可視・不可視を問わない痛みへの想像力だろう。

見るのではなく、一度真剣に、能動的に「視る」。

すると、もう一つの目が開いたかのように、2度と外せない色眼鏡をつけたかのように、以降他者を見る視点が変わることに気がつくはずだ。

他者の痛みへの想像力と共感力は、お互いの傷を通じた対話の可能性と、互いの経験を認め合う寛容さにつながると信じている。

一方的な他者批判がいかにナンセンスだったのか、大きな姿勢の変化へとつながるかもしれない。

カトマンズの路上での出会いは、このような深い示唆を含んでいた。
傷痕は、私たちが生きてきた証であると同時に、他者とつながるための架け橋にもなり得るのかもしれない、と。

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