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レティシア・コロンバニ「三つ編み」を読んで 私たちは戦っていい
私たちは戦っていい
「鏡にうつる自分の姿は敵ではなく、味方でなくてはならない」
―レティシア・コロンバニ「三つ編み」
仕事との戦い、子供との戦い、家族との戦い。
最近そうやって、何かを「戦い」と形容するのを避けていた。
だって、人生は戦いなんかじゃない。もっと幸せなものだ。だから肩の力を抜いていい、深呼吸してリラックスしよう。ずっとそう思ってきた。
だが、しかし。
それでも私たちは、戦わなければいけないときがある。仕事を手放さないよう必死にしがみついたり、子供を守ろうとキリキリ気を張ったり、心の平穏が切れないように細心の注意を払ったり。自分の盾を握りしめて、どうにか一歩ずつ進んでいく。
そんな姿は、なんだか大変そうでかわいそう、ということになるんだろうか。
この「三つ編み」は、そうやって人生を戦いつづける3人の女性の物語だ。そして彼女たちは、全然かわいそうじゃない。
インドのスミタは、触れることも見ることも穢れとされる不可触民として生きてきた。娘には同じ人生を歩ませない、と決めている。
シチリアのジュリアは、父親の作業場で生きていくことを選び、家族のような仲間たちに囲まれている。
カナダのサラは、弁護士事務所のトップを取るべく、その他の何もかもを切り捨てて進んでいく。
彼女たちの物語は、最初から容赦なく崩れていく。あらゆるものを捧げて目指してきたものが、簡単に奪われ、目の前から消え去っていく。手放すことを強いられる。
それなのに、彼女たちは戦うことをやめない。人生の舵にしがみつく。信じる。諦めない。目を逸らそうとするけれど、やっぱり逸らさない。
この人たちはいったいなんなんだ、ここまで来て、それでも絶望しないのはなんなのよ。全然わからないようで、でも痛いほどよくわかる。
スミタは娘ラリータの人生を1ミリたりとも譲らない。もう誰にも服従しないと決めている。
そんな彼女を、強い女性だと簡単に括れない。
母は強し?いいや、強かろうと弱かろうと、どうしても諦められないものがある。娘のため?自分のため?そんなの区別したって仕方ない。
強く見えるその足は震えているかもしれないし、踏みしめるのは今にも崩れそうな土台かもしれない。それでもスミタは目を逸らさない。
「来世を待ちながら、ダリットは黙って服従する。
だが、スミタは違う。今日は違う。
自分のことなら酷薄な宿命として受け入れた。だが、娘はそうはさせない。 」
私たちは真正面から戦っていい。
譲れないものを譲らないために、必死につかみかかって息切れして、戦いつづけてもいい。
そうやって「三つ編み」は、今日も誰かの背中を押している。
*付け足し*
作中でスミタの娘ラリータが抱いているのは、プーランデヴィの人形。私は中学生のころプーランデヴィの自伝に出会い、世界が自分の思うより遥かに広いこと、残酷であること、今この瞬間にもそこで生きる人がいることを知った。あのころ10回以上は読んだ「女盗賊プーラン」、いま読み返したら何を思うんだろうか。