書く前の傷と公開した痕
noteを書く前の楽しさと公開した後は、
新鮮なものから摂取(中に取り入れる)の推移へ。
あれ? もしかしてこれのループなのか。
何かを書く前は
ある程度 影響されたもの 刺激を与えてくれたもの 内省しながら 普段考えているものを 大雑把に下書きを書き溜める。最近は書き溜めておく言葉もかなり増えてきた。
カロリー高い情報ばっかの最近のTwitterの下書きやiPhoneのメモもよく使ってたけど、最近は、noteを書く 為に 割とインプットを摂取することを意識しながら、息してる。孤独の功名ってやつ。
自分と他者 所属している社会と向き合うことは、その境界線もその解釈も解釈度も、全部グラデーションだ。このグラデーションをより鮮明に知覚して 時々 対立させて 具現化し 琴線に触れる…そんな自分の部屋の階段がある 場所 にピッタリな読み物 に出会いたいし それを書いた人には、最大級の賛辞と尊敬を示したい。
noteを始めたことにより、内なるエネルギー を僕は何に注いでいたのだろうか。を浮き彫りにする。
どちらが健全で、正常なのだろうか。
食事や睡眠 そして、仕事と仕事外、読み書きなどの時間消費 音楽など、主に暮らしに関するテーマと関連ワードを意識的にも無意識に集めている気がする。
勿論、ここには劇的に何かを変化し、自分を楽しませるものも 抑揚のあるグラデーションはなく、寝てばかりだし、悪夢ばかりだし、質素だし 無機質で、平凡である。
いざ、書こうと 作業に入る。
頭の中で 書きたいから、作りたいものに 作成していく。
ただ、書き始める前は 最高に楽しい。
けど、作り始めると、違うが襲ってくる。自炊も似てるんだけど、どうやら違う景色もあるんだなと最近は思うようになってる(食に関してはもっと書き温めたい)。
想像の中では 自己矛盾も 言い訳も、ありだ。
考えているもの純度100パーセントを 書いてるうちに
70パーセントくらい落としてるイメージ。
書き出して解る、100パーセントのアウトプットなんて、不可能なんだと。
あの楽しいは嘘だったのか。理想は、現実に塗り替えられるのか。
自分の見てる現実におののく…
グラデーションのある世界が 美しいと感受した
何もない僕は、僕にとっては1番不寛容だったのかな。
意欲はある、刺激も貰ってる、でも、具現化出来ない しようとしない
このループの正体は、、、
初投稿のnoteから ずいぶん中身は変容はしている。
それが悪い方なのか 良い方なのか
正常なのか、不健全なのか、
この孤独と違国の風景をどうやったら、自分の言葉と接続出来るのか。
言文一致の問題も潜んでいるし。
書いてるうちに こうした表現行為や意欲に落とし所になる自分も、平凡で、
ダメだなぁって思う奴。(冒頭で孤独の巧妙とか言ってたのに)
もっとこう、頭の中じゃなく、書ききれないものを書きたいと思うのは、潜在的にあるんだなぁ。
それが出来たとき、この拗れてる自意識過剰な世界から 救済(オリジナル)を求める長い旅には、よりきれいな日常の自分を 浮上させて 浮き彫りにするはず。
書いた後 、公開後 読み返す。
これまた未成熟な自分と 少しの成熟さを
実感する。けして後味は良くない。
自分の小さな内面から
グラデーションのある大きな物語の舞台へ。
自己完結は 無理だ。
ただ、時間が経つと そんな絶望もリセットされる。
人間の心は、よく出来ておる。
書き終えた解放感と同時に
何も起こらない日常を
非日常として 語りかける再出発。
しばらくは、noteの優しい世界に浸ってはいたいし、
書き上げたい完成させたいも沸いてくる。
こんな世界で
どこにも溶け込まないでいる僕にも
居場所を下さいよ。