2022年7月22日

今日は、本当に久々に、バイトも大学も何も予定が無い日。本物の休日。TRUE HOLIDAY. 辞めよう。TOEICの申し込みを忘れていて意気消沈しているというのに、下手な英語を使うのは辞めよう。
大学生がこの本物の休日を使ってすることと言えば、ズバリ試験勉強だ。月曜から試験週間が始まる。時間が無い。最悪だ。
先日鬱を脱出した僕は極めて健康そのものだが、頭が足りないというのは機嫌ではどうしようもない。暗記が大変苦手な僕にとって、いかに要らない部分を捨てられるかがテストを乗り切るために大事なことだ。教授の方々には申し訳ないと思っている。

試験が近づいてくると部屋を掃除したくなる、という話がある。試験勉強が嫌で、何か他のことをして気を紛らわし、勉強しない自分を正当化する。それが部屋掃除として現れるのだそうだ。だが僕の場合、むしろ部屋は汚くなっていく。複数の科目を並行して勉強しなければいけないので、複数の科目の教科書や講義資料を本棚から引っ張り出しては机周りの床に適当にポイポイする。使うものが手の届くところにあってほしいタイプの人間だ。先日までレポートを書いていて、その時も参考資料や手順書を近くにポイポイしていた。まだそれが散らばったままになっていて、その上から新たに試験勉強に使う教材をポイポイした。ここから1週間、机周りの床が見えることは無い。

言い訳にならないが、一応試験を終えた暁には大掃除をする予定がある。その時に一気に片付ければ良いと思って、今こんなことをしている。
ただ、まぁ、自分のことだ。本当に大掃除をするのかどうか。その時の僕に聞いてみないことには何とも言えない。

要するに、試験期間がいよいよ始まったのを床を見て感じたということだ。がんばれ、自分。幸い日記を見返せば、試験期間中僕が何を感じどう生きていたかを振り返ることが出来る。
一週間後の自分へ。良い一週間になっただろうか。良い返事を期待している。


日々Twitterを見ている。情報を得るというのもあるが、単にフォローしている人たちの呟きに興味があって追いかけているだけだ。
ツイートを見ていると、「この人Twitter上手いな〜。」と思う人が一定数いる。ネタツイが面白いとか内容が興味深いとかではなく、言い回しとか言及する事象の捉え方が僕にとって心地良いという意味で上手いと感じるのだ。
何がそんなに良いと感じるのか不思議だったが、今日その端緒を掴んだ気がする。
現状僕が思う良さの基準、それは『いかに書かれてないことを読み取れるか』だ。ツイートの本文そのものだけが情報になっているのではなく、その文から滲み出る非言語的な『感覚』、そこまでを情報として含むツイートが、良いツイートだと僕は感じている(良いツイートって何だという話だが)。非言語の内容は、抽象的であったり曖昧な事象であったりするもので、それ自体を言葉に落とし込むことはとても難しい。だからそれを言い表そうとした時、実際にはそのことを捉え説明しているわけではない言葉で間接的に言い表すことになる。そしてそれを読んだ人が書いた人と同じように抽象概念を思い起こせ共感した時、その情報は問題無く伝播する。フォロワーが『いいね』を押す瞬間だ。
これは詩や歌詞にも共通して言える性質だ。そこで書いている(歌っている)内容そのものが伝えたい内容ではない。そこから想起される抽象的概念が伝えたいことであり、読んだ人(聞いた人)の多くが同様に言葉から抽象概念を捕まえて共感することが出来る。

君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ
そのぶきっちょな笑い方をめがけて やってきたんだよ
RADWIMPS『前前前世』

野田洋次郎は別に君の前前前世から君を探し始めたわけではないし、君の笑い方をぶきっちょだと思っていて、その笑い声を目掛けて赴いたわけでもない。もしそうだとしたらとんでもない人だ。バンドマンよりもYouTuberの方が向いているだろう。そうではなくて、彼はこの歌詞に、真っ直ぐな愛情のようなものをこめている。そして僕らはこの曲を聴いてそのことを汲み取っている。「え?前前前世から?マジ?」なんてことにはならない。藤原基央は見えないものを見ようとした体験を僕らに報告しているわけではないし、草野正宗は自分が空を飛べるはずだと訴えているわけではない。草野正宗が鳥人間コンテストに出るというのなら気になるところだ。
少し異なるかもしれないが、比喩表現が上手いとでも言うのだろうか。言葉には表れていない本質を人に伝えるという言葉の使い方が上手い。そんな人の歌や詩やツイートが、文化的に良いということなのだろう。

ところで、僕はこの言葉の使い方が大変苦手だ。僕は言葉に、言葉通りの意味しか込められない。完成された一義的な文章を書くことは出来ても、読み手の中で萌芽し共感を煽るような文章は書けない。
人にウケが良いのは後者の言葉だ。上に書いたように、多くの人に受け入れられる歌詞は基本的に抽象的なものだ。『いいね』を集めるツイートも、ネタツイや派手な呟きを除けばそういったものが多い。だから僕のツイートはあまり人に気に入ってもらえることは無いし、こういう日記記事が読まれてもその人にとって何か残るものがあるかと言ったら特に無い。『言葉が硬い』とでも言うのだろうか。
だが、僕はそのことを悲観するつもりはない。言葉で人に影響を与えられるのは『言葉が柔らかい』人だし、そういう人の文章を読むと僕も良い気分になるが、僕の硬い文章は一義的に僕を捉え、分かりやすく説明している。これで十分だ。というか、もっと硬くなっても良い。

とはいえ、柔らかい文章が書けるということは、羨ましい。この文章は硬く伝えられるべきだが、柔らかく伝えたい内容を書きたいことだってある。作詞とか作詩とか、人に読ませるための言葉を書けたら、人としての幅も広がって見えるだろう。
どうしたらそういう表現が出来るのだろうか。センスなのだとしたらとても悲しい。

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