【哲学】ふと「生きていく」ってなんだろうと思ったことについて
「生きていく」ってなんだろうと思った。
今連絡を取り合っている有名なアニメーターがX(旧Twitter)で「人生は死ぬまでの暇つぶしと思うと気が楽になる」と書いているのを見た。
同日、インフルエンザの予防接種中に病院で流れてたテレビ番組で、義眼の女性がパリコレに出るという取材で「顔を上げて、生きてほしい」という言葉を聞いた。
予防接種の帰り道、いつもより遠く感じる空を眺めながら考えた。
人生は死ぬまでの暇つぶしと思うとなぜ気が楽になるんだろうか。
なぜ顔を上げて生きていく生きる必要があるのか。
もちろんどちらも処世術だったり願望だったりするのはわかっている。
けどその上でふと「生きていくってなんだろう」が頭に浮かんだ。
生きていくという言葉に含まれた概念はいったいなんだろう。
〈生きていく〉で思い出したこと=アタラクシア
エピクロスの考え方が割と好きだった。
セネカも悪くないけど、彼は堅実で
エピクロスのほうがハッピーな感じがする。
といってもエピクロスのことは「快楽主義」のことくらいしかよく知らない。『我々のあるところに死はない』このフレーズはべたすぎるけど、やっぱり好きだ。なんていうかキラキラしてる。
大学の時に暗記する必要があったからか、なんだか青春のにおいもして言葉がより美化されちゃっているのかもしれない。
冒頭の二つの出来事は「アタラクシア」を求めているようだと感じた。
「アタラクシア」・・・そんな言葉を一介のサラリーマンが使うことになるとは思わなかった。
詳しい説明はwikipediaとかを参照してほしいのだがエピクロス曰く、欲求は3つに分けられるそう。一応並べておくか。
必要で自然的な欲求 (眠い、お腹すいた、家に帰りたい、健康でいたい)
必要じゃないけど自然的な欲求(豪華な暮らしをしたい、オシャレな服を着たい)
自然でもなくて必要でもない欲求(権力、名声)
で、このうち必要で自然な欲求だけを追求して恐怖とか苦痛からはできるだけ逃れよう、心を平静に保とうというのが「アタラクシア」のコンセプト概要である。
「欲求の5段階」とはよくいうが、つまるところ人はいろーんなことに疲れたり追いつめられると「アタラクシア」するのかもとか思った。
というか「アタラクシア」って本当に健康に良さそう。
〈生きていく〉というコンセプトに何を込めるか
大学でいつも一緒にいた女の子がいたが、1年生の途中から学校に来なくなった。その子が大学に来なくなるタイミングでTwitter(現:X)に書いた一言をふと思い出した。
「善が美、美が善ならば私は何だろうか」
このツイートを見て彼女が学校に来なくなった後に、彼女は生き方に迷っていたんだと気付いた。
彼女はプラトンが好きだった。
プラントの『対話篇』で真善美にちなんだ内容がいくつか出てくる。
「真」「善」「美」とは形而上的・・・価値判断が枠に収まりきらないような究極のイデアとでもいえばいいのか、適切な日本語が思い浮かばないけれど崇高さを代表する3大コンセプトだ。
そしてこれらはお互いに対応しており、「真」なものは「美」しいし、「美」しいものは「善」い、「真」なものは「善」いし、「善」とは「真」であるそう。
多分彼女は真善美を基準に置いたとき、自分の生き方に対してよい評価を与えられなかったのではないかと思う。
「生きていく」上で自分をなにかの基準にあわせる人もいる。
いわゆるロールモデルってやつだ。
「生きていく」の先には引継ぎがある
人はいつか死ぬ。
けど「生きていく」と、その過程で出会った人に意志を継ぐことにもなる。
名前を挙げたエピクロス、プラトンも現代の私たちに考えを継いでいるし、有名人じゃなくても「生きていく」だけで誰かに多少の影響を与える。
スピリチュアルな話だが、もしかしたらコンセプトは永遠に継承されていくのかもしれない。
「生きていく」のは簡単じゃない
今回取り上げた「生きていく」上でのコンセプトは以下4つ。
アニメーターさん:死ぬまでの暇つぶしをどう謳歌するか
義眼の女性:どう顔を上げて堂々と生きれるようにするのか
私:こころを平穏にたもつために生きているうちに何をやるか
大学の同級生:生きる過程に基準を置いてどうクリアするか
このように「生きていく」ための生命維持計画には多様なコンセプト=概念が存在する。
生命活動を継続させるためには、長期的に運用可能なビジョンや目的=生きがいが必要で、
だからこそ心折れたときに「人生終わりだ」「死にたい」「詰んだ」という言葉が出てくるのかもしれない。
ベネターが非出生主義を提唱しつつそれを覆してくれる人を探すのも無理ない。
「生きていく」って「生きたくない」とか「生まれてこなければよかった」ってことを深く考えるより全然難しい。