汚れた血 (3)
*
「ちくしょうッ、あいつら騙しやがったな!」プラスチック製のカップを壁に叩きつけたジャック船長は、私たち乗員に、通路へでるよう命じた。「ノーマン、カラスを連れて操舵室手前のロッカーから火器を取ってこい。ほかのやつらは船内を調べて回れ。通信機器は持ったな? チャンネルはAにあわせておけよ。いいか、動くモノを目にしたらすぐ連絡しろ!」
「う、動くモノってなんですか?」声を震わせて、尋ねたのはカラスだ。
「一体、どうなってるんです!」続けて機関部員のノーマンが抗議の声をあげた。乗員で最も理知的な男性と思っていただけに、取り乱したノーマンの姿は見るにたえない。
「馬鹿野郎ッ、そいつに触るんじゃねぇッ!」船長が怒鳴った。怒鳴られたのは私だ。壁を覆っている黒く湿ったコールタールのような物質に触れていた手を、慌てて引っ込めた。
「な、なんですか、動くモノって。なにかいるんですか? 生き物かなにかが? 船長? 船長ッ?」
「うるせぇッ!」問うたカラスの身体を突き飛ばし、船長はコールドスリープ・ルームの出入り口を塞ぐように立った。「見ればわかるだろうが! ギーガーデザインの〈エイリアン〉を知らねぇのか」
「は、はい?」
「いいから行け、ロッカーから火器を取ってこい。ほら、行けよ、早く行けッ!」
肩を押されてカラスはよろけた。ノーマンは唇を噛んで拳を握りしめている。私は腕を組んで自身の身体を抱きしめ、後退しながらカラスを見つめた。単語そのものが使われなくなって久しいのでカラスは理解できていない様子だが、船長が口にした〈エイリアン〉とは、二〇世紀後半に地球で作られた映画のタイトルだ。〈エイリアン〉は、航行中の宇宙船内で、乗員たちが謎の生物に襲われるSFホラー作品である。言われてみればたしかに、黒い物質で覆われた壁の様子は、映像で見たエイリアンの巣窟に似ていなくもない。
「ま、待ってください。どういうことですか。全然わかりませんよッ、わかるように説明してくださいよ! な、なにか、なにかいるんですか? 生き物が? 生き物がいるんです? 壁をこんな風に変える生き物が船内に……あ、あの荷物ですか。もしかして、ハイニュート社から預かったあの荷物の中身が――」
「わかってんなら早く行けよ、ほら、行け。早く行かねぇかッ。あぁあ、ちくしょう! 秘密裏に開発した特殊製剤とか言ってたくせに、あいつら、おれを騙しやがって。あ? おい、ノーマン、お前なにやってんだ。そいつと一緒に早く火器を取ってこい。ほら、行け。行かねぇか。ぼーっと突っ立ってるお前らもだ。ふたりで船内を調べろ!」
ふたりというのは、私とエスターのことだ。貨物船内を調べろというのは、無理な注文としか思えなかった。エスターは通路の床に座り込んでしまっていて、動くことはおろか、声を発することもできないほど怯えきっているのに。
「聞こえねぇのか? 立て。命令に背くなら契約違反とみなして支払いはなしだぞ」
「そ、それは困りますッ!」ここで声を発したのはカラスだ。「い、行きましょう、ノーマンさん。火器を取りに早く行きましょう! エスターさんも立ってください! 船長の命令は絶対だって、ほら、サインした契約書に書いてあったでしょう? 立って。立ってください……ああ、もう、そうだ、火器が。火器があれば安心ですよね? 火器があれば船内調査、できますよね? すぐに取ってきますから、そしたら調査にでてください。ど、どうでしょう、船長、このアイデア。火器が手に入ってから船内を調べて回るということで構いませんか?」
急に饒舌になったカラスが場をしきりだし、船長の了解を得ると、不服な顔をしていたノーマンの手を取って操舵室へと向けて移動しはじめた。船長が話したように、エイリアンのような生き物が船内にいるとすれば、安易な移動は危険極まりない愚かな行為だが、報酬の話がでてきた途端に、カラスの中から恐怖という感情は消えてしまったようだ。
「火器が手に入ったら、見て回れよ」エスターへ向けて吐き捨てるように言うと、船長はコールドスリープ・ルームの再奥へ移動し、私とエスターを見張り役にして火器の到着を待った。
操舵室までの通路の安全が確認されたのは一〇分ほど経ってからだ。火器は誤射の恐れがあるエスターを除いた乗員四人の手に渡った。シグ社のデザインを模したエナジーガンと、ソニックショットガン。どちらも生物破壊の威力が充分にある銃で、その両方を手にしたのは船長だけだった。
ノーマンが先頭を歩き、カラス、私、エスターの順で通路を進む。船長はコールドスリープ・ルームからでるなり、操舵室へと駆け足で移動して、乗員が船内調査をはじめるのを確認しようともしなかった。
「奥に行くほど、厚みが増しているみたいですね」
壁を覆う謎の物質を観察しながらカラスが言った。〈キャロ〉は小型に分類される貨物船だが、ギャラクシー級の惑星連邦宇宙艦との比較で小型と呼ばれているだけであって、実際はかなり大きく、貨物船内を調べて回るのは大変な作業である。通路は狭く入り組んでいるうえに天井が低い。カラスが言った通り、奥にある貨物室へ近づくごとに壁を覆う謎の物質は厚みを増していた。
「くそッ、なんだこいつは。ヒリヒリするな」苛立った口調で言ったノーマンが通路の角を曲がり、姿が見えなくなる。
「待って。待って、アガサ」エスターが私の腕にしがみつく。「やめよう。やめようよ。ね? 戻ろう? 戻った方が良いよ、絶対に」
私はエスターを見つめ返して、かぶりを振った。ただし胸中はエスターと同じ気持ちである。船内調査などやりたくない。きた道を引き返して身を守りたい。あと数時間で荷物の受け取り相手と合流するのだ。乗員全員で安全の確保された操舵室やコールドスリープ・ルームに閉じこもっていればいい。危険をおかす必要なんてないのに。だけど船長に指示されている。雇われている。
気づけば、先を歩くカラスの姿も見えなくなっていた。
「大丈夫。私のあとについてきて」不自然な抑揚がついてしまったが、やや張った声で言ってエスターの肩に手を載せた。震えが腕を伝ってきて、私に感染する。あわてて手を引き、両手で銃を掴んで胸へ押しあてた。
「い、いるぞッ! いるぞッ、そこだ!」
曲がった通路の先で、誰かが叫んだ。
「馬鹿野郎ッ! どけ! どけよ、ちくしょうッ!」
ノーマンだ。ノーマンの声だった。
続けざま閃光が瞬き、轟音が響き渡り、
「――だ! 逃げ――逃げろッ!」
立て続けに銃声が鳴る。私は叫び声をあげたエスターに押し倒される。床に突っ伏して声をあげて手足をばたつかせながらどうにかその場から逃げだそうとみっともなく足掻き、
「――モノだ、そこら中に、バ――」
耳が。耳が良く聞こえなくて、だけれども気にしている場合ではなくて、私は、床を、床を這ってどうにかこの場から逃げだすべく手――足を、身体全体で、
「――ッ!」
通路の角からなにかが飛びだす。耳を押さえても凄まじい音が指の隙間から頭の中心へ向けて入ってくる。細やかな欠片が目の前を横切り、壁にぶつかって床のうえに落ちる。目があった。カラスと。カラスの欠片と。次から次へと欠片が宙を舞い、壁の物質を剥ぎつつ周囲に散らばって――私――私は、悪夢と呼ぶのが相応しい現状からなぜか目を離せなくて、動けなくて、音が、耳鳴りが、焦げ臭さと血生臭さと謎の物質とが入り混じった不快な臭いが鼻のまわりにまとわりついて、
「――!」
通路の角からノーマンが姿を現し、私へ銃口を向けた。
*
「……ゆっくり。ゆっくり、長く息を吐いて、吐き終えたら、大きく吸い込んでみましょうか。ゆっくりです。ゆっくりですよ。アガサさん、ゆっくり吐いてみましょう。そう。そうです。苦しくなったら、息を吸って。……ナミさん、グリーン2番の、アンプルの準備をお願いします」
「え? あ。あの、ドクター……すみません、お伝えするのが遅くなってしまいましたが、実は救急搬送の際に、アガサさんにはグリーンのアンプルを投与していまして、ほかにもイエローとオレンジも試みてみたのですが……」
「向精神薬を三種も?」
「えぇ。ですが、効果を得られなかったものですから、アンチS系の薬剤を応急処置として使用し――」
「でしたら、ニライカナイを試してみましょう」
「え? ニライ……なんですか?」
「ニライカナイです。アンプルの色は、濃いブルーだったはずです。急いで。あぁあ、大丈夫ですよ、アガサさん。ゆっくり。ゆっくり息を吐いて。吐いたら、大きく吸ってみましょう」
――私、
「ド、ドクター?」
――私は、
「大丈夫です。数値を読みあげてください」
――私は言葉を発することはおろか、呼吸することすらままならなくて、
「し、しかし、ドクター、こうした状況でブルーのアンプルを使用するなんて聞いたことありません。そ、それに、それにおそらくは条約で――」
ただただタケウチとナミ中佐の交わす言葉に耳を傾けていることしかできなくて、無意識に掴んでいたタケウチの腕を強く、出鱈目に強く、握り潰さんばかりに強く掴む指の力を緩めることなどできなくて、
「いいから数値を。順に数値を読みあげてください。早く!」
「ドク……」
「…………を!」
「…………」
「…………」
断続的に私は私でなくなって、一切の音が聞こえなくなって、かと思えば全身を恐怖と苦痛で満たされて肺の奥から嫌な音がやかましいほどに聞こえてきて、
「……艦内に搬送してすぐに全身洗浄を行ったんですよね? 使用したのはオート洗浄装置ですか? 地球製の? でしたら、もしかすると採取できるかもしれません。ナミさん、綿棒でアガサさんの外耳道を拭ってみてください。運が良ければ……あぁあ、効果が現れてきたようです。数値がさがってますよ。良かった。正解でしたね、ニライカナイを試みて正解でした」
手の力が緩んだ。
涙で潤んでいるぼやけた視界の隅に、微笑んでいるタケウチが見えた。
私は息を吐きだす。
顔の表面を這うようにして温かくてこそばゆい血液が巡っていくのがわかる。
「大丈夫です。安心して」タケウチの声。「頭をまっすぐに。目は閉じていてください」
私は従順に目を閉じて身体の力を抜いた。
どこからか呆れたような嘆息が聞こえたが気にせずに、タケウチの言葉に従って目を閉じたまま意図的に肺だけを動かす。
頬をつたった涙を誰かが優しく拭いてくれた。
「……どうです? 呼吸は苦しくありませんか」
タケウチが私の顔を覗き込んで口角をもちあげる。
安心を与えてくれる笑顔に私は頷いて返す。唇を潤して、礼を言おうと頭をあげる。
「駄目です。起きあがらずに、そのまま。無理はしないでください」
無理はしていない。もう大丈夫だと思う。
私はかぶりを振り、身体を起こしてタケウチに礼を言った。
少し離れた場所に、困惑した目で私を見つめているナミ中佐が立っている。出入り口の扉の前には変わらず副長のリンカーン中佐と、眉尻に傷のある若い男性が。男性は黄色いボックスの中に手を入れていた。側面に私の名が記された箱だ。〈キャロ〉脱出時に着ていた服や所持していた品が入っていると思われる――アガサ・ローナンと記された箱の中に、手を。
「ドクター、すみません……お尋ねしたいのですが」ナミ中佐が一歩前に足を踏みだした。ナミ中佐の視線を追って、タケウチへ顔を向ける。タケウチの表情からは笑みが消えていた。「どうして、ブルーに分類されるアンプルの使用を判断されたのですか? 安定剤として使用された前例など聞いたことありませんし、おそらく、こうした状況下での使用は条例に違反して……いえ、責めているわけではありません。アガサさんは回復に至っているわけですし、数値は正常値を示しているのですから、ドクターの判断は正しかったといえますが、しかし――」
「血だろう?」――ここで、「流れている血が、違うからだろう?」眉尻に傷のある若い男性が口を開いた。
「血が、違う?」と、ナミ中佐。
「えぇ。そうですよねぇ? アガサさん」男性は唇の端を歪めて私を見た。右手に持ったなにかを掲げてみせながら。
「……!」
反射光が目を射して、一瞬、視界が奪われる。瞬きして、目を凝らす。輝いている。シルバーに。
ネックレスだ。
亡き母から譲り受けたネックレスが、男性の手の中で瞬いていた。
「見た目は我々と同じ〈人の形〉をしてますが、アガサさんは、地球人ではありませんよねぇ? ほら、これが証拠です。シンラ派の証です。ネックレスの飾りに刻まれたこのマークって、シンラ派の証ですよね?」
「シンラ派? シンラ派って……」ナミ中佐が振り返って、男性を見た。
男性は静止し、射竦めるような冷たい目で私をまっすぐ見つめている。
――あぁあ。
そうか。そういうことだったのか。
ようやくわかった。
ずっと男性から睨まれていた理由が。
「アガサさんは、惑星シータゼッドのシタゾイド人だったんですよ。だから、薬の効果が我々と違っていたんです。そうですよねぇ、アガサさん。ドクターもそのことに気がついたから、処方を変えたんでしょう?」
「シタゾイド人? しかもシンラ派だと?」副長のリンカーン中佐の目に、冷たさが宿った。室内にいたものすべての目が、一斉に私へと向く。そう――そうだ。男性の言う通り。
私は、地球人にとって忌々しい存在のシンラ派に属していた、シタゾイド人の生き残りだ。
両親とは、幼い頃に死別し、人生の大半を地球人に囲まれて暮らしてきたけれども、身体の中にはシタゾイド人の血が流れている。
純粋な血が。
「シタゾイド人って、STBOの発症に関係している、あのシタゾイド人?」
「そうですよぉ、ナミ中佐。奇病の発症どころか、蔓延の原因を作ったシタゾイド人です。汚れた血の種族という呼び名の方が、メジャーではありますけどね」
「ジュノ!」副長のリンカーン中佐が静かな口調で叱り、男性を睨みつけた。
すると男性は顎をさげて半歩ほど後退した。どうやらジュノというのが男性の名前のようである。ジュノは不服そうに唇を尖らせると、手に持っていたネックレスを透明な袋に入れて、箱の中へとしまった。そして、汚らしいものに触れたかのように、太ももに手を押しあててゴシゴシと擦った。私に目を向け、小さく舌を鳴らしながら。
「いい加減にしろ、ジュノ」
「……失礼しました。ですが――」
「さがれ。さがって黙ってろ。これ以上、いい加減なことを口にするな」
「いい加減? お言葉ですが、副長。私は、間違ったことはひとことも口にしていませんよ。STBOが蔓延し、多くの地球人が命を落としたのは、シタゾイド人のせいじゃありませんか。治療薬が完成するまでは断絶という取り決めをしたのに、禁じた交流を続けて感染者を増やし、あげくの果てには地球人が元凶だと主張したひどい連中です。汚れた血という呼び名だって、はじめはシタゾイド人が使っていたというではありませんか」
「だからといって、彼女とは関係ないだろ」
「……え、えぇ。わかっています。アガサさん個人には、なんの恨みもありません。しかし、シタゾイド人というだけならばまだしも、シンラ派の証を身につけていたとなると黙ってはいられませんよ。副長だって、そうではありませんか? シンラ派の連中が起こしたテロによって、多くの親族を亡くされたのですよね?」
私は身体を起こして立ちあがろうとしたが、タケウチとナミ中佐に身体をおさえられた。それでもどうにか頭をさげて謝罪の意思を伝える。伝えようとする。副長のリンカーン中佐とジュノは、扉の前から動くことなく、黙って私を見つめていた。
「…………」
「…………」
嫌だ。
嫌な沈黙が降りてきた。
息が詰まる。
胃の腑あたりが痛む。
まさかここにきて、出自に関する話がでてくるとは思わなかった。
シンラ派――それは、私の両親が属していた、シタゾイド人の過激派組織だ。シンラ派は惑星連邦の宇宙艦を奪って、何隻もの地球の船を攻撃した。軍人、一般人関係なくである。もしかするとジュノの眉尻の傷は、シンラ派のテロ行為によってついたものなのかもしれない。だとすればシンラ派を、シタゾイド人を、私を責めるのも当然であるように思う。
許せるはずがない。血を継いでいる私を。
シンラ派のテロ行為の発端になったのは、STBOの発症だと聞く。シタゾイド人と地球人との性行為で発症するこの奇病は、死に至る病であり、どちらかの人種に非があるわけではなかったが、シンラ派のものたちは、地球人側が元凶だと考えて、行動にでたという。
当時の私はまだ幼かったので、テロに直接加担したというわけではないけれども、両親とともにシンラ派の船に乗っていたのは事実であり、血生臭い現場を目にしたことが何度も、何度も、ある。最終的にシンラ派は壊滅し、両親を失った私は名乗りをあげてくれた団体に保護されたが、後の顛末は現在の私の状況をみれば語るまでもないだろう。
死ぬまで解放されることはないのだ――血の縛りから。
だけど、
だからといって両親を恨む気持ちは微塵も持っていなくて、とくに身を呈して私を守ってくれていた母親の方は特別な存在だ。だから肌身離さず持っていた。シンラ派の印が刻まれていようとも。
亡き母から譲り受けたネックレスを手放すことなど考えられない。
「副長、それにジュノ保安員、もうしわけありませんが、少しの間、席を外して頂けますか?」
「席を? 駄目ですよ、ナミ中佐。規則違反です」
ナミ中佐の申し出を断り、ジュノが前進して副長のリンカーン中佐と並んで立つ。
「では、規則に準ずる必要のない状況に変えましょうか」ここでタケウチが口を挟み、私の瞳を覗き込むようにして顔を近づけた。「アガサさん、休憩しましょう。一旦中断して、私も外にでますから、しばらく横になってゆっくりしてください」
「いえ――」かぶりを振って、私は背筋を伸ばす。親切には甘えない。甘えたところで、なにが変わるわけでもない。結局は先延ばしだ。望まざる展開は必ず私を丸呑みにする。「続けてください」構わなかった。血に関することで責められるのは今日がはじめてではないのだから、大丈夫。
再び呼吸を乱してしまわぬよう、ゆっくりと静かに口から息を吐いて大きく吸い込む。タケウチの目を見ると、微笑んで返された。
私は回想する。そして言葉にして伝える。
貨物船〈キャロ〉で見た光景を。
〈つづく〉