退塾騒動 そしてトラウマ

・はじめに

 過去に何度かTwitter上で話したことがあるが、私は高校受験直前に塾を辞めている。これには訳があるのだが、詳細は追って後述する。

 さて、退塾騒動というタイトルの通りであるが、私は塾を辞める際に塾長とトラブルを起こしていた。トラブルについて理解してもらうため、騒動のきっかけとなった出来事や入塾の経緯と塾の内情、そして塾長について述べていこうと思う。ちなみに現在はその塾は廃業しており、尚且つ年単位の時間が経ったので漸く詳細を語れるようになったのである。

 ・入塾の経緯と塾の内情

 私は中学一年生の三学期に転塾をした。実はその問題の塾に通う以前に大手進学塾に通っていた。しかしそこで思うように結果が出ず、母親から別の塾に通うように告げられた。その塾の名前は『学習塾 EUREKA 』である。そこの塾は懇切丁寧に優しく教えてくれるということで、何も知らなかった当時の自分はその塾に期待を寄せていた。しかし、入塾当初はよかったものの、次第に塾長が本性を表し始める。問題を間違うとドスの効いた声で怒り、語尾は必ず「い"い″?」「え″え″か″?」というように強く同意を迫るようなものであった。また体罰も横行しており、問題を何度も間違える、覚えていないところがあると殴ることはよくあり、机を蹴ったり教科書や参考書で頭をバンと叩いたりということが塾ではみられていた。自分と同じ学年の塾生は他に5人いたが、彼らが塾長から怒られたり体罰を受けたりする様子を見るのは精神的にもやられるものであった。今でもその光景が鮮明に焼きついている。

 続いて塾での一連の流れについて説明していく。水曜日と土曜日の午後7時から午後9時までが塾の拘束時間だった。(中学三年生からは午後10時までに延長)予定終了時刻より過ぎることは当たり前のようにあり、休憩時間はありながらも長時間ぶっ続けで勉強をするということは体力的にもかなりの負担を強いることとなった。定期テスト直前は日曜日であってもほぼ毎日塾に通い定期テスト範囲の勉強をする。そして実力問題もたまに解く。この期間は学年をごちゃまぜにしながら勉強する方式であったため、自分が全然知らないような内容の勉強を耳に挟みながらテスト勉強をしていた。いつもと異なり終わりの時間が定まっていないため、正午過ぎに行って帰りが夕方になることはよくあった。夏期講習は約1週間あり、過去の単元の復習をした。お昼休憩も挟みながら午前午後横断形式で勉強をした。これについてまだ耐えることはできたのだが、高校入試直前にて遂に限界を迎えることとなった。

・塾長について

 かの問題の塾はまさに個人経営の塾であり、先生は塾長である山本キョウスケただ一人であった。普段は面白い話をふってくれるおじさんであるが、塾が始まると途端に鬼と化す。彼の学生時代はまさにストイックというべきもので、受験勉強の際には血尿の症状が出たり家中の窓ガラスを割ったりしたという。(本人談)また、なんと小6の頃に連れとたばこを吸っていたというのである。これに自分は恐怖をおぼえ、悪事を自慢するヤバい人であるというイメージが定着した。また重度の愛煙家であり、私との会話でもタバコの煙をこちらに向けるということを平然とした。いわば犯罪自慢ということも平気ですることに今となっては狂気をおぼえる。

・退塾騒動のきっかけとその過程

 何だかんだありながらもなんとかやっていくことができ、時は流れ、遂に高校受験の時期が到来した。中三では他の学年にはない冬期講習があり、冬休み返上で受験勉強を始めた。長時間復習をし、昼はコンビニ弁当で済ませる生活をしばらく繰り返した。ある日の休憩中、同じ学年の塾生から一個下の学年の塾生が大量退塾したという噂を聞いた。これを聞いた時は「この塾もしかしたら潰れるのでは」という感想を持った。これは自分が退塾したその2ヵ月後に見事的中することとなる。そして冬期講習も終わり、1月中旬に某高専で推薦入試を受けた。1月末に合格発表があったが結果は不合格であり、初めての挫折にショックを受けながらもいつもの時間に塾に行った。不合格の報告を受けた塾長はしっかり慰めてくれ、同校の一般入試に向けて過去問を解いていくことになる。しかし、本当の地獄はこれからであった。合格発表から数日経ったある日、塾長が問題解説をする過程で「恐怖で覚えさせる」という趣旨の発言をしたのである。その前日には私の兄が先生に解答の点数を見て「不正したやろ!」ということでパイプ椅子でガンッ!と殴るぞと脅迫されたこともあり、私は恐れ戦いた。この人の意に反することをしたら殺される……と思った。あの頃の私はまさに塾長の奴隷のように調教されていたのだと今では思っている。その後は毎日夜遅くまで通塾し、塾では飲み物を飲んだり休憩したりすることは許されず、目をちょっと擦るだけで怒られることもあった。皆の前で恥をかかされるようなことも言われ、わたしの心身はもう限界へと達していた。最後に通塾したのは2月11日の朝であり、その日は前日から徹夜しながら入試の過去問を解いたこともあってか全然頭が冴えていなかった。塾では数時間勉強して13日にまた塾へ行く予定であった。しかし、13日の朝、私の体は異常なほどに重く、兄に関しては全くベッドから起き上がることができなかった。塾に行ったら確実に酷い目に遭わされるからであった。私は学校に行った後、そのまま塾に行くのではなく、家へと帰った。そこには母と兄が居り、兄が何故休んだのかについても母は把握していた。そして母は私たちにもう塾を辞めようと切り出した。私もそれに賛成し、塾長に退塾の意向を伝えようとした。しかし、ここでまた一悶着起こった。以下は記憶から辿った通話の様子である。

私「もしもし」 

塾長「んーどうした」

私「塾を辞めたいんですが」

塾長「あーあかん、今すぐ来い」

塾長「おい弟(私のこと)よ、お前な、辛いのは皆一緒なんや」

〃「ここで逃げるってことやぞこの野郎」

ここで電池切れになり、また電話がかかるも今度は母が応答、そしてそのまま電話を切り今後一切塾長と連絡は取らなくなった。

あの地獄の塾から解放されたことで私の食欲は回復し、体調も元通りに戻った。他の塾生は受験勉強を塾で続けていたようだが特にトラブルの報告はなかった。

・その後の顛末 そしておわりに

 退塾後すぐに私は某高専の一般入試を受験した。結果は合格ラインギリギリと予想し、後期選抜の対策もしておかなければならず、受験勉強は3月の公立高校の後期選抜まで続けた。しかし、あの塾での圧力はもうなくなり、自分のペースで勉強を続けることができた。結果として某高専は不合格であり、一度は補欠の候補になるも不合格が公立高校の合格発表日に確定した。(後期選抜で受けた高校は合格している)

 なお塾についてだが、私が退塾したその2ヶ月後に生徒数減少に伴うテナント料の支払い困難や経営難により閉塾。最後に私が塾長を見たのは高校の入学式の日にスーパーで買い物をした時の帰りであった。ちょうど妻と一緒に来ており、私と目が合うも顔は無表情のままであった。その後の消息は分からないが、元塾生によると彼は現在京都にて別の仕事をしながら暮らしているという。


 そしてあれから年単位で時は過ぎ、ようやく落ち着いてあの頃のことを振り返ることができるようになった。今でも夢に時々塾長やあの時の風景が出て魘されることはあるも落ち着きは取り戻していっている。このことから私は人を100%信じることは絶対にしないことを決め、どんな人であろうとも裏切る可能性はあるのだということを学んだ。そして塾長のやり方はDVとかなり酷似しているこということも。私は塾長を許すことは一生ないし、○してやりたいと思うこともある。あの塾での出来事はトラウマになるほど私の心に深い傷痕を残した。体罰は勉強ができないからといって絶対許さない行為であることを私は強く思っている。また、私に起こった出来事はこれが全てではなく、ここには書ききれないほどの塾長の体罰や威圧が為されていた。今回は退塾騒動に焦点を絞ったが、また別の機会があればnoteにて紹介していきたい。この記事を読んでくれた方がぜひとも内容を心に留めてくれれば幸いである。

          令和4年2月24日木曜日
                  高橋

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