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#02 私、爆誕。そして幼少期。

私、生まれる。

28年前私はこの世に産まれました。
不妊治療の末産まれた第1子、長女。
ギャンブルに溺れた亡き祖父は私が産まれた事が大変嬉しかったらしく家族を泣かし続けたギャンブルを辞め、私の為に家を建ててくれました。

私の名前は🇵🇭の叔母から取ったと聞いています。
異国の親族も呼びやすいようにと。

亡き祖父はまた別記事で書きますが初孫の私をとてもとても可愛がってくれました。

哺乳瓶使ってミルク飲むのはなんと4歳まで続きました🍼


保育園に入園

ここからがまず人生で最初の絶望です。
怖くて寂しくて仕方ない。
毎日毎日泣いて逃亡してたしお昼寝は全く寝れない。
そしてデブ🐖だったので男子にいじめられ登園拒否。

が、

それが許されることは無く。
泣きながら登園してました。

年長の頃やっと先生に辛いと伝えれていじめは無くなりました。

保育園は3年間通いましたが楽しかった記憶があるあまりありません。
しかし初恋は1つ上の男の子。
はじめてのキスはお昼寝の時隣に寝てた男の子(笑)

初めてキスした男の子はおひな祭りの時
『一緒に撮ろう』って言ってくれた男の子でした。

結果、この男の子を小学生まで好きでした。
私の淡い淡い1番純粋な思い出。

きっとこの頃が1番純粋で綺麗な恋だったんだなって思います。


家族との関係性

冒頭に書いた通りだと幸せな家族、だと思う。
ただやはり言葉の壁はあった。
そして文化の違いもあった。

母はフィリピン人だったので地雷を踏むとホウキかスリッパで容赦なく叩いてきた。
そして慣れない日本語、お互いに何を言っているか分からず私は泣くことしか出来なかった。

そんな母が世界で1番嫌いでした。

そんな母が必ず言うセリフがありました。
『お母さん死んだらお前は笑うんやろ?』

って必ずと言っていいほど聞かされていました。

純粋な私は『嫌だ!!』と泣いてましたが、きっとこれが私のまず心の歪みです。

母に何か助けを求めること、話をすること、
全て心が拒絶しました。
何をしても褒めて貰えず絵本を勿論読んでもらったことはありません。

これは海外の両親を持つ人あるあるかもしれません。

普通に見えて普通じゃない。

でもそれに気づくのはずっと先の話です。


しかし母以外の家族は本当に可愛がってくれました。
人間嬉しい事や幸せな事は記憶に残りませんよね。
今幼き頃を思い出しても母との悲しい記憶しかありません。

私はお父さんっ子で母に殴られるといつも父に助けを求めました。
それがまず母は気に食わなかったんです。

要するに父のことが大好きな母は嫉妬をしてたんですね。
実の娘に。

娘の私からしたらたまったもんじゃない。

多感期なこの頃に自己肯定感を失い今も苦しい時があります。
家族のせい、とは言いたくないけどもしこの頃に
愛してる、と抱きしめてくれたら。
大丈夫、と頭を撫でてくれたら。

きっと少しは人生変わっていたんじゃないか?と思ってしまいます。


0歳~6歳までを総括

この世に性を受けて6年。
辛い悲しいってキモチがモヤモヤと黒い感情に満ちていたと思う。

でもそれを伝える事、助けを求めることを知らない。
泣くことしか出来ない。
でもそれを毛嫌いされ突き放される。

本当は抱きしめてほしくて甘えたくて。
もっともっと大事なんだと家族から与えて欲しかったキモチが溢れていたんだと思います。

それをこじらせてしまい大人になった今も同じことを他人に求めてしまってるんだろうなと改めて思いました。

多感期に愛を沢山伝える

もし私に子供が出来たら絶対に伝えたい。
そう強く思います。



次は小学生の頃をいくつかに分けてお話しますが入学してからがまた大変でした。
私の性風俗で働くきっかけとなったのは小学生の頃です。
6年間この多感期でこじらせた感情が思春期と反抗期と重なり大変でした。

それを細かく書いていこうと思います。




👇🏻自己紹介良ければお読みください♡👇🏻

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